想定外の出来事が起きたときは、寄せられた情報を頼りに「きっとそうだ、間違いない」と思い込んでしまいがちだ。そのほうが、行動に迷いが生じずに済むからである。経験の乏しい若きリーダーならば、なおのことだろう。
だが、このときに家康は「決断してしまいたい」という誘惑に打ち勝ち、状況をよく見て判断している。『徳川実紀』には、家康の様子がこうつづられている。
「いささかもあはて給わず」
家康のもとに義元死去の情報が寄せられたのは、合戦当日である5月19日の夕方とされている。だが、家康はよく情報を確認したうえで、兵の動きが悟られにくい夜半まで待ってから、大高城を出発した。
妻子が待つ駿府城ではなく岡崎城へ
しかし、本当の問題は出発したあとに、どこに行くかである。家臣を率いて大高城を出た家康が目指したのは、妻子が待つ駿府城ではなく、岡崎城だった。
今川家の没落を知る現代の私たちからすれば、無難な判断のようにも思えるが、このときの先行きは不透明そのもの。義元が撃たれたものの、今川家には後継者の氏真がいる。もちろん、重臣たちの生き残りもいた。23歳の若き氏真のもと、今川家が再建されることも、この時点では十分に考えられただろう。
しかも、義元は「桶狭間の戦い」の前に、いち早く氏真に家督を譲っていた。 義元が駿河から西へ侵略するために、息子に本国を任せたといわれている。つまり、自身が衰える前に、わが子へとスムーズに権力を譲渡しつつあったのだ。
家康はのちに江戸幕府を開いたとき、わずか2年で将軍をわが子の秀忠に譲っている。そして、自身は駿府に身を置いて「大御所」となり、段階を踏みながら決定権を息子に移行させた。もしかしたら、義元のやり方が、頭のどこかにあったのかもしれない。
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