織田信長が今川義元を討ち取った「桶狭間の戦い」(永禄3年5月19日)は、戦国大名間のパワーバランスを大きく変えた。そして「長篠の戦い」(天正3年5月21日)もまた、戦国時代のエポックメイキングな出来事となる。双方を仕掛けた信長はやはり、数多いる戦国大名のなかでも、突出した存在だったといってよいだろう。
長篠の戦いで武田軍を打ち破る
「長篠の戦い」では、かつては「最強」と恐れられた武田軍が、織田信長と徳川家康の連合軍によって打ち破られた。「3段撃ち」という戦法や、織田軍がそろえたという鉄砲の数「3000挺」については、史実ではないとする声もあがっている。だが、信長がいち早く着目した鉄砲が「長篠の戦い」で大いに活用されたことは、異論なきところだろう。
もちろん、兵力の差も大きかった。織田信長と徳川家康の連合軍3万8000人に対して、武田勝頼の軍は1万5000人である。それでも勝頼は「回避すべき」という重臣たちの意見を退けてまで、決戦へと踏み切っている。
その結果、武田軍は惨敗。織田軍と徳川軍では主だった武将の戦死は見られないなかで、武田軍は「武田四天王」と呼ばれたうちの3人が戦死。
北信濃の治世を行っていた高坂昌信を除く、山県昌景、馬場信春、内藤昌豊が命を落とした。そのほか、土屋昌続、真田信綱、真田昌輝などの勇将も戦場で散っている。武田軍は実に数千人にも及ぶ犠牲を払い、壊滅状態へと追い込まれた。
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