一向宗側についた本多正信
若き徳川家康を大いに苦しめた、三河での一向一揆。課税や外部の立ち入りを拒否できる「守護使不入」(しゅごしふにゅう)の特権をめぐって、家康は一向宗徒と対立を深めていき、大きな反発を受けることになった。
家康を悩ませたのが、家臣たちの裏切りである。家臣たちのなかにも一向宗徒は多くいた。主君か、信仰か。苦しい選択を迫られて、一向宗側に味方するものも少なくなかった。
一揆がどの寺からどのように勃発したかについては諸説あるが、『三河物語』では、「野寺の本證寺から一揆は起きたが、岡崎から遠かったため、後詰めになった」と説明。一揆の先陣を切ったのは、佐々木の上宮寺、針崎の勝鬘寺、土呂の本宗寺だったとしている。
「土呂、 針崎、 佐崎の三ヶ寺は自ら計画したことではないが、1つの宗派の寺なので仲間となった。この三ヶ寺は岡崎に近いので逆に先陣を切ることになった。これはと思うほどの人びとはみな、土呂、針崎、佐崎の3カ所にたてこもった」
裏切った酒井将監(忠尚)の城に立てこもった勢力もいた。その1人として『三河物語』に名を記されているのが「本多弥八郎」、のちの「本多正信」である。
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