家康が築山殿の奪還に成功した背景
人生がうまくいきはじめたときこそ、注意が必要である。家康は「桶狭間の戦い」を契機に、今川氏のもとでの人質生活に終止符をうち、岡崎城で独立。織田信長と同盟を組むことで、三河の平定も現実味が帯びてきた。
駿府に置いてきた妻子のことだけが気がかかりだったに違いないが、それも家康は見事に解決へと導いている。
永禄5(1562)年2月、家康は西郡上之郷城(蒲郡市)を攻めて、鵜殿長照を討つと、長照の息子である鵜殿氏長と氏次を捕らえることに成功。今川氏と取引をして、この2人を引き渡す代わりに、正室の築山殿、息子の竹千代、娘の亀姫を奪還したといわれている(ただし、『当代記』では、築山殿と亀姫の女性2人は、家康が岡崎に帰還した時点で、岡崎に移ったとされている)。
なぜ今川氏がこんな取引に応じたかといえば、今川義元の妹が、鵜殿長照の母だった。つまり、長照と今川義元の息子である氏真は、従兄弟関係にあった。そのため、氏真は長照の息子2人の命と引き換えに、家康の妻子を引き渡すことにしたのである。
あとは、このままの勢いで、三河を平定してしまうだけ……のはずが、家康は、大きな困難に巻き込まれることになる。三河での「一向一揆」の勃発である。「家康三大危機」(ほかは「三方ヶ原の合戦」「神君伊賀越え」の2つ)の1つにも数えられるこの一揆は、なぜ起きたのだろうか。
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