家康の強硬な姿勢への反発は大きく、一揆は各地で勃発。一向門徒だけではなく、家康の政策に反対する国人や土豪、農民も加わって、一揆は永禄6年(1563)9月から翌年3月まで続くことになる。
永禄7(1564)年の正月には、土呂・針崎・野寺の一揆勢が、大久保一族の守る上和田砦に攻撃を加えた。その様子について『三河物語』では、次のように描写されている。
「永禄6年正月に、あちこちの門徒衆が集まって、土呂、針崎、野寺、佐崎にこもって一揆をおこし、家康の敵となる」
主君に忠実なはずの三河武士たちの裏切り
家康への抵抗が強まるなか、こんなときこそ、頼りになるのが家臣たちだ。なにしろ三河武士たちは、主君に忠実なことで知られている。後年、家康は全盛期にある豊臣秀吉にこう言ったという。
「私は殿下のように名物茶器も名刀も持ちません。しかし、私にも宝があります。それは、私のために命を賭けてくれる500ほどの家臣です」
真偽はともかく、そんな逸話が残るほど、三河の地で苦楽をともにした家康の家臣たちは結束が固いことで知られていた。
だが、この三河一向一揆において、家康の家臣からも裏切り者が続出。家康を苦しめることになった。
一揆勢が大久保一族の守る上和田砦を攻撃したことについて、『三河物語』では、こう続けられている。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら