そのほか松平一門からは、大草松平家の松平昌久や、松平信光の末裔にあたる松平信次らが、一向一揆側に味方した。さらに家康の家臣からは、渡辺守綱、石川康正、夏目吉信、本多正信らが一向一揆側についている。
家康はこれまでも時には織田氏、時には今川氏と戦いながら、多くの難局を乗り越えてきた。しかし、内部から次々と自分の反発者が現れたことによって、これまでにない苦悩を味わうことになっただろう。
もっとも、家康の家臣たちのなかにも一向宗の門徒は多かった。家康につくか、一揆側につくか。難しい選択に迫られて葛藤することになったのである。
家臣に勧められて和議を結ぶ
一揆が本格化してから1カ月後の永禄7(1564)年2月には、家康が優勢になった状態で和議が結ばれることになる。当初、家康は和議に積極的ではなかったが、家臣たちに勧められて決断を下している。一揆側についた家臣についても、場合によっては水に流す寛大さも見せたという。
自分あっての家臣ではなく、家臣があっての自分である――。
一向一揆における内部分裂から、家康はそう実感したのではないだろうか。家臣の離反という苦い経験は、下の者の立場に立った組織マネジメントとして、その後に生かされることになる。
【参考文献】
大久保彦左衛門、小林賢章訳『現代語訳 三河物語』(ちくま学芸文庫)
宇野鎭夫訳『松平氏由緒書:松平太郎左衛門家口伝』(松平親氏公顕彰会)
平野明夫『三河 松平一族』(新人物往来社)
所理喜夫『徳川将軍権力の構造』(吉川弘文館)
本多隆成『定本 徳川家康』(吉川弘文館)
柴裕之『青年家康 松平元康の実像』(角川選書)
二木謙一『徳川家康』(ちくま新書)
日本史史料研究会監修、平野明夫編『家康研究の最前線』(歴史新書y)
菊地浩之『徳川家臣団の謎』(角川選書)
大石泰史『今川氏滅亡』(角川選書)
記事をマイページに保存
できます。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら
印刷ページの表示はログインが必要です。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら
無料会員登録はこちら
ログインはこちら