徳川家康、三河一向一揆で予想外「裏切り続出」の訳 松平元康から改名後に起こった衝撃の事件

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「そのとき、義諦をそそのかして、主君とするというと、義諦はその話に乗って敵となり、東条の城へ急いでこもって戦いをしかけた」

まずは吉良義諦(義昭)が、三河一向宗と手を組んで、東条城に入ったという。義昭はもともと今川氏の忠実な家臣で、「桶狭間の戦い」後、家康に攻められて降伏した経緯がある。機とみれば、家康に反旗を翻すのも無理はないだろう。だが、その後も一揆側につく者が次々と現れている。

家康の妹婿も一揆側についた

「荒川(義広)殿もはじめ味方であったときは、家康の妹婿になられたが、今度は裏切られて、義諦と行動をともにした。それだけでなく、桜井の松平監物(家次)殿も荒川殿としめしあわせて、裏切った。上野の酒井将監(忠尚)殿も裏切る」

荒川義広は、家康の異母妹にあたる市場姫をめとっており、家康にとっては妹婿にあたる。東条城主の吉良義昭攻めに協力したことが、家康に認められたきっかけだった。それにもかかわらず、義昭にそそのかされて一揆側についている。

また、松平家次は、桜井松平家3代当主である。家康に命じられて、品野城に迫る織田軍を撃退したこともあったが、一揆が起きると、荒川義広と歩調を合わせてやはり裏切っている。さらに、酒井将監(忠尚)も裏切ったと『三河物語』では記されている。

当時、20歳だった家康にとっては、リーダーとしての求心力を試される大きな試練となった。戸田忠次のように、家康との関係性の悪化から一時的に敵側についた者もいる。

「戸田三郎右衛門尉は家康の機嫌を損ない、寺側に味方したので、心からの離反というわけではなかった。寺を攻略しようと計略を立てているとき、現れて、外構を焼いてでてきたので、家康の機嫌もなおって、再び味方となった」(『三河物語』)

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