一向一揆とは「一向宗」(浄土真宗)の信徒たちが起こした一揆のことだ。といっても、浄土真宗のすべての宗派が一揆に参加したわけではない。主に本願寺派の門徒によって、一向一揆が三河でも引き起こされることになる。
『松平記』によると、事の発端は永禄6(1563)年、家康の家臣である菅沼藤十郎が上宮寺に踏み入ったことにあったらしい。兵糧として千もみを奪ったという。
家康勢は永禄3(1560)年の「桶狭間の戦い」以降、戦続きだった。「永禄の飢饉」も重なったため、兵糧米の確保は大きな課題となった。そのため、寺院からも強引に徴収が行われたようだ。
「守護使不入」の特権を侵害して一気が勃発
これに対して、本證寺、上宮寺、勝鬘寺の「三河三ヶ寺」が反発。奪われた兵糧を取り戻したため、対立が本格化していく。その後、家康の家臣である酒井政家(正親)が使者を送ったが、三ヶ寺側が使者を斬ってしまったため、家康が検断、つまり逮捕したともいわれている。
一説には、酒井政家が謀反人を捕まえるために本證寺に入ったともされているが、いずれにしても「守護使不入(しゅごしふにゅう、課税や外部権力の立ち入りを拒否できる権利)」が侵害されたことで、一揆が引き起こされることとなった。
しかし、家康が寺院から反発必至の政策に踏み切ったのは、食糧事情だけではない。当時の三河では、浄土真宗本願寺派の有力寺院が水運や商業を掌握していた。三河の支配にあたっては、そんな現状を変えなければならなかった。
家康には早かれ遅かれ、寺院勢力と対峙しなければならないという考えがあったのではないだろうか。
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