NHK大河ドラマ「どうする家康」の放送が始まり、「徳川家康」に注目が集まっている。長きにわたる戦乱の世に終止符を打って江戸幕府を開いた徳川家康が、いかにして「天下人」までのぼりつめたのか。また、どのようにして盤石な政治体制を築いたのか。
家康を取り巻く重要人物たちとの関係性を紐解きながら「人間・徳川家康」に迫る連載『なぜ天下人になれた?「人間・徳川家康」の実像』(毎週日曜日配信)の第10回は、前回に引き続き家康の人生における「三大危機」の1つである「三河一向一揆」を解説する。
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「ひたすら耐え忍んだ」は誤解
若いころはひたすら苦難に耐え続けて、機をじっくりうかがった結果、大躍進した天下人――。
徳川家康には、そんなイメージが付きまとうが、実像はやや異なる。実際の家康は「機を見るに敏」。どんな苦難が立ちはだかろうとも、事態を打開すべく、迅速かつ大胆な行動に出ることが多かった。
桶狭間の戦いでは、今川義元が織田信長に討たれるというまさかの事態に遭遇するが、状況を冷静に判断して、岡崎城で独立。今川氏を見限って、織田氏との同盟に踏み切っている。
そんな家康の優れた突破力は、「家康三大危機」の1つとされる、三河での一向一揆においても、存分に発揮されることになる。
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