徳川家康20歳、三河一向一揆での「冷酷処分」の怖さ 「三大危機」のうちの1つをどう乗り切ったのか

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三河平定を目前にして勃発した一向一揆には、家康もずいぶんと手を焼くことになった。一向一揆とは、「一向宗」(浄土真宗)の信徒たちが起こした一揆のことだ。

一揆の原因は、三河をまとめるべく、家康が打ち出した政策にある。これまでは認められてきた、課税や外部の立ち入りを拒否できる「守護使不入」(しゅごしふにゅう)の特権に、家康は大胆にもメスを入れたのである(『徳川家康、三河一向一揆で予想外「裏切り続出」の訳』参照)。

兵糧を強制的に徴収し、寺内にも警察権を行使する。そんな家康の強引な政策が、一向宗の信徒たちを怒らせた。一揆は永禄6年(1563)9月に端を発して、国人や土豪、農民も加わり、翌年3月まで続くことになる。

家康にとって誤算だったのは、松平家家臣からも一揆側につく者が続出したことだ。ただし、家康の家臣たちのなかにも一向宗の門徒が多くいたことを思えば、離反者が出るのは無理からぬことではあった。

結束の固さには定評があったはずの家臣団は、たちまち分裂。家康はリーダーとして大きな壁にぶつかることになった。このとき20歳である。

家康に弓は引けなかった離反者たち

戦いは連日連夜続き、膠着状態となった。だが、離反したとはいえ、家臣が主君に弓することは、大きな抵抗があったらしい。『三河物語』によれば、家康が現れると、敵は「家康が駆けつけた。早く引け」とバラバラに退却したという。

「蜂屋半之丞」の名でよく知られる蜂屋貞次は、一揆側に味方しながらも、家康を恐れた家臣の一人だった。『三河物語』での半之丞の立ち居振る舞いを観てみよう。

半之丞は「私の槍先に、誰が向かってこようか」と誇るほど腕に自信がありながらも、家康の姿をみかけると一目散に逃げだした。そのあとを、家康側の家臣である松平金助らが追いかけて、「半之丞、戻れ」というと、態度を急変させてこう言ったという。

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