「もっともだ。お前たちが言うように和議を結ぼうとする人びとの命は助け、寺も前のままにおく。ただし、一揆を企てた企てた者はやむなく処罰することになろう」
一揆を企てた者まで許せば、また同じことが起きてしまう。家康が鎌倉時代の文献『吾妻鏡』の愛読者だったことはよく知られている。鎌倉幕府を開いた源頼朝は、歯向かった者はもちろん、歯向かってきたら脅威になる人物さえも、あらかじめ排除した。家康もまた、頼朝のように、リーダーとして毅然とした態度をとろうとしたのかもしれない。
だが、一揆を起こした側からすれば、許される者と処罰される者がいたならば、和議でまとめることが難しくなる。なおも「私たち以外のほかの者もお助けください」と食い下がったため、和議の交渉は難航する。
家康を説得した忠臣・大久保忠俊
そんななか、家康を説得したのが、大久保忠俊である。忠俊は家康の祖父、松平清康の代から仕えている。
忠俊は「せがれの新八郎は眼を射抜かれ、おいの新十郎も目を射抜かれ、そのほか子どもで傷を受けない者はなく……」と一向一揆の激しさを語りながら、「もうこれでしまいかと思うところに家康様みずからおかけつけくださった」と改めて、家康に礼を述べている。そのうえでこう懇願したのである。
「私の甥や子供の辛苦の分だと思って、一揆を企てた者たちの命を助けてください」
これまで長く仕えた忠俊だけに言葉に重みがある。忠俊は厳罰に処することで、民の心が家康から離れることを心配したのだろう。また、一方の家康は、今回の反乱で、家臣をまとめる大切さに改めて気づかされたはず。自分を思っての家臣の助言をむげにはしにくい。気持ちが揺らぐ家康を、忠俊がこう後押しする。
「いろいろなご不満は、お捨てになって、なんなりと相手の望みをかなえさせ、和議を結ばれよ」
これには家康も折れて「それならおぬしをたてて許そう」と述べて、上和田の浄珠院で起請文まで取り交わしている。家康の寛大さは、忠俊の説得があって発揮されたものだった。
しかし、話はここでは終わらない。家康の恐ろしさを、家臣たちは改めて知ることになる。
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