本多正信の前半生についてはあまりよくわかっていない。生まれたのは、天文7(1538)年で、家康より4歳年長ということになる。
正信の父は本多俊正で、もともとは松平家の重臣だった酒井忠尚の下で働いていた。忠尚が謀反を起こしたために、ともに家康と戦うこともあったが、永禄7(1564)年9月に家康に臣従している。
そのため、同年に起こった一向一揆では、俊正は家康方についているが、息子の正信のほうが忠尚の城に立てこもり、一揆側につくことになった。
本多正信が一揆側に味方したことが、家康にどれだけのダメージを与えたかは定かではない。一説によると、正信は桶狭間の戦いに参加。そのときに、丸根砦の戦いで膝を負傷し、それ以降は足をひきずって歩いたともいわれているが、それも真偽は定かではない。
家康からすれば、酒井忠尚が自分に歯向かってくるのは初めてではない。正信についても、そんな酒井忠尚勢の1人という認識でしかなかったのではないだろうか。
江戸幕府を開いたときには欠かせない側近に
本多正信が一向一揆側についたことに、後世の人々が驚くのは、その後の活躍ぶりを知っているからだ。家康が江戸幕府を開いたときに、欠かせない側近として働いたのが、ほかでもない、本多正信だった。
家康がいかに正信に信頼を寄せて、重用したか。それは江戸幕府を開いて、わずか2年後、将軍の座を3男の秀忠に譲ったときに、家康がどんな人事配置をしたかを知れば、よくわかるだろう。
慶長10(1605)年4月16日、将軍宣下の儀式が行われ、27歳の秀忠が第2代徳川将軍に就くことになる。といっても、何も家康が自身の限界を悟ったわけではない。むしろ、その逆である。
大名たちを統制する「武家諸法度」の制定をはじめに、幕府の根幹づくりのために、家康にはまだやるべきことがたくさんあった。だからこそ、秀忠が将軍職に就くと、家康は駿府に退き、自ら大御所についた。政治の実務は秀忠が行ったものの、政治の実権は依然として、家康が掌握することになる。
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