「殿も朝鮮に出兵されるおつもりですか」
しかし、家康は黙り続けるのみ。真意をはかりかねて、正信が再度尋ねても、明確な答えは返ってこない。3度目に同じ問いをすると、家康はこう叱りつけたという。
「何事か、やかましい。人に聞かれるぞ。(朝鮮出兵に応じた場合に)箱根を誰に守らせるというのか」
これを聞いて、正信は家康の本意を悟ったのだという。とはいえ、秀吉の意向に逆らうわけにもいかず、家康も命じられるままに、肥前名護屋(現:佐賀県唐津市)に在陣。出兵に備えたが、渡航命令が下ることはなかった。
結果的に、朝鮮出兵は失敗に終わり、多くの武将たちが負傷するなかで、家康は兵を温存することに成功している。運が強い家康に、正信は「天が味方している」と頼もしさを覚えたのではないだろうか。まもなくして秀吉は死去。家康が天下人へと上り詰めていくのを、正信はそばで支え続けたのである。
「昨日の敵は今日の友」を実践した
「佐渡殿、鷹殿、お六殿」
家康の「三大好物」として伝わっている言葉だ。「鷹殿」は、家康が愛好した鷹狩りのことで、「お六殿」は一番若い側室のことをいう。そして最初の「佐渡殿」こそが「本多佐渡守正信」、つまり本多正信である。
家康は正信を「友」と呼んだともいわれている。家康と正信は互いに、人生において欠かさざるをえないパートナーだった。
だが、家康がまだ20歳のときに、一向一揆が勃発し、正信に裏切られたときには、そんなことは想像すらしなかっただろう。一向一揆側と和議に至ったのちも、家康は正信のことを渡辺秀綱、鳥居忠広らとともに追放している。
なにしろ、自分が最もつらい時期に、裏切った家臣である。はらわたが煮えくり返る思いだったに違いない。それでも、最終的に家康は正信の帰参を許している。
敵を許すことで自分が救われることもある――。裏切りによって窮地に追い込まれた家康だったが、疑心暗鬼に陥ることなく、つらい経験をその後の人材マネジメントに生かしたのだった。
【参考文献】
大久保彦左衛門、小林賢章訳『現代語訳 三河物語』(ちくま学芸文庫)
宇野鎭夫訳『松平氏由緒書 : 松平太郎左衛門家口伝』(松平親氏公顕彰会)
平野明夫『三河 松平一族』(新人物往来社)
所理喜夫『徳川将軍権力の構造』(吉川弘文館)
本多隆成『定本 徳川家康』 (吉川弘文館)
柴裕之『青年家康 松平元康の実像』(角川選書)
二木謙一『徳川家康』 (ちくま新書)
日本史史料研究会監修、平野明夫編『家康研究の最前線』 (歴史新書y)
菊地浩之『徳川家臣団の謎』(角川選書)
大石泰史『今川氏滅亡』 (角川選書)
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