NHK大河ドラマ「どうする家康」の放送で注目を集める「徳川家康」。長きにわたる戦乱の世に終止符を打って江戸幕府を開いた家康が、いかにして「天下人」までのぼりつめたのか。また、どのようにして盤石な政治体制を築いたのか。
家康を取り巻く重要人物たちとの関係性を紐解きながら「人間・徳川家康」に迫る連載『なぜ天下人になれた?「人間・徳川家康」の実像』(毎週日曜日配信)の第12回は、家康が「三河一向一揆」後に行った組織作りについて解説する。
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三河一向一揆を無事に鎮圧
親会社から独立して、ようやくスタートアップにこぎつけたと思ったら、社内分裂に見舞われる――。現代の企業でいえば、徳川家康はそんな事態に直面したといってよいだろう。
今川家の支配から脱し、岡崎城に戻って自立。勢いのある織田信長との同盟を強化して、今川氏を牽制しながら、三河の統一も見えてきた。そんな矢先に、本願寺派の門徒らを中心に、三河で一向一揆が巻き起こったのだから、家康としても「勘弁してくれ」と言いたくなったに違いない。
もっともきっかけを作ったのは、家康である。課税や外部の立ち入りを拒否できる「守護使不入」(しゅごしふにゅう)の特権にメスを入れて、一向宗徒たちを怒らせた。誤算だったのは、自分の家臣からも一向一揆側についたものが少なからずいたことである。
しかし、一時の盛り上がりは見せたものの、一向一揆側にはまとまりが欠けていた。家康は一揆を無事に鎮圧して、事なきを得ている。
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