しっかりと組織の骨格さえ作ってしまえば、あとはこれをベースに補強していけばよい。家康は、三河を統一したのち、1568(永禄11)年には、この軍事組織をもって、遠江に侵攻を開始。今川家や武田家などの敵対勢力を次々に駆逐していく。
その過程においても、家康は今川氏や武田氏の旧臣たちを、自分たちの家臣団に、積極的に組み込んでいる。三河での一向一揆を乗り越えて、家康は度量が大きいリーダーへと成長したといえそうだ。
側室も適材適所で能力を発揮させた
あらゆる人材を活用した家康。驚くべきことに「側室」からもそのポテンシャルを十分に引き出している。
家康は、まず今川義元の姪である築山殿を正妻に迎えた。築山殿の死後は、豊臣秀吉の異父妹の朝日姫を正妻に迎えている。
だが、2人とも不幸な運命をたどったこともあったのか、家康は江戸幕府を開いて、征夷大将軍になってからも、正妻を持たなかった。その代わりに、家康は実に16人もの側室を迎えている。未亡人の割合が多く、しっかりしたタイプの女性に支えられる場面がよくみられた。
側室の阿茶局もその中の1人で、今川家の家臣で夫の神尾忠重が亡くなると、家康に召し出されて側室となり、女性の身で従軍もいとわなかった。「大坂冬の陣」では、豊臣家の淀殿に対抗して、大坂城の堀を埋める交渉なども行っている。家康の死後も、2代将軍の秀忠の娘、和子が入内したときやお産のときに上洛したり、秀忠と家光の上洛に同行したりと、その存在感を発揮した。
そのほか、側室のお梶やお奈津の方は、大御所時代の家康から400万両の金を分けて預けられていたという。金銭感覚に長けていたからだろう。
家康にとっては側室もまた、徳川家を発展させる貴重な人材だった。その適材適所の才は、側室相手にも発揮されていたのである。
【参考文献】
大久保彦左衛門、小林賢章訳『現代語訳 三河物語』(ちくま学芸文庫)
宇野鎭夫訳『松平氏由緒書 : 松平太郎左衛門家口伝』(松平親氏公顕彰会)
平野明夫『三河 松平一族』(新人物往来社)
所理喜夫『徳川将軍権力の構造』(吉川弘文館)
本多隆成『定本 徳川家康』 (吉川弘文館)
柴裕之『青年家康 松平元康の実像』(角川選書)
二木謙一『徳川家康』 (ちくま新書)
日本史史料研究会監修、平野明夫編『家康研究の最前線』 (歴史新書y)
菊地浩之『徳川家臣団の謎』(角川選書)
大石泰史『今川氏滅亡』 (角川選書)
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