この2組に加えて、家康は身辺を守る「旗本組」も結成している。いわば、家康の指揮のもと、前線で戦う軍団といってよいだろう。旗本組には、本多忠勝、榊原康政、鳥居元忠ら旗本が編成されている。
まとめると「酒井忠次組(東三河衆)」「石川家成組(西三河衆)」「旗本組」の3組に整備しながら、家康は「三備体制」を築くことになった。そのほか、枠外に「奉行衆・代官衆」を設置。徳川直轄領の財政・民法・司法を担わせている。
役割を明確にして、指示系統を整理する。家康が家臣のタイプを見極めながら、組織だった動きを目指していたことがよくわかるだろう。
「三河三奉行」はなかった?
この「三備体制」に加えて、家康が「三河三奉行」という職を置いた……と長く唱えられていた。三奉行とは天野康景、高力清長、本多重次のことである。19世紀前半に編纂された江戸幕府の公式史書『徳川実紀』にも、次のようにある。
「みな氏真の軟弱な点を嫌がり、今川方を去って、当家に帰順し、今は三河の国一帯を押さえたので、本多作左衛門重次、高力左近清長、天野三郎兵衛康景の3人に国の政治と訴訟や裁判の奉行を命じられた」
だが、「三河三奉行」の根拠がどうも弱いと近年は指摘されている。根拠の1つが、永禄11年に3人の名で出された禁令である。
そこでは「甲乙人の濫坊(乱妨)・狼藉」「山林・竹林の伐採」「押し買い」が禁じられており、「天野三郎兵衛、高力与左衛門、本多作左衛門」の3人の名が確かに連ねられている。
ただし、同じように3人の連名で発給されている文書は、その翌年に出された同じ内容の禁令のみ。同時期に、ほかの奉行人たちによる連名文書も見られることから、近年は「三河三奉行はなかった」という見方が強い。
家康は「三備体制」を整備しながら、前述の3人に限らず、多数の奉行人たちに内政に携わらせていた。そう考えるのが自然なようだ。
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