徳川家康、裏切り者「本多正信」を好んで重用した訳 「三河一向一揆」で追放、帰参後は蜜月関係に

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わざわざそんな二元政治を敷いたのは、「将軍家を徳川家で世襲することを世間的に示す」という意味合いが大きかったようだ。というのも、関ヶ原の戦いでは勝利したとはいえ、豊臣家の影響力がなくなったわけではない。家康が将軍に就任したとき、豊臣秀吉の嫡男である秀頼を引き合いに出して、「秀頼様は関白になったらしい」という間違った情報さえ流れているくらいだ。

「まだまだ油断できない」と家康は早めに世代交代して、世襲の意思を世に明らかにする必要があった。会社の創業者が息子に社長を譲って、自らは会長として権勢を振るうかのように、世襲を打ち出しながらも、自身の影響力を保持したのである。

とはいえ、このとき家康はすでに62歳。世代交代を念頭に置いて、息子にも経験を積ませなければならない。家康と秀忠は、支配エリアの分担も行った。「会長」にあたる家康はいわば西日本の担当で東海・北陸から西の諸国を、「新社長」にあたる秀忠は東日本の担当として関東・奥羽の諸国を支配したのである。

二元政治を行うにあたって、家康らしい慎重さも発揮されている。軍事指揮権や外交権は自分が握ったままにしたのは、その1つだ。

さらに、秀忠のもとには、とびきり信頼が厚い家臣を送り込んだ。それこそが、本多正信だった。正信を送っておけば、自分は駿府からでもしっかり秀忠を見張ることができる。家康はそう考えたのである。

「家康の分身」と一目置かれた本多正信

家康と正信がいかに蜜月の関係にあるかは、家臣たちもよくわかっていた。そのため、家康が首を縦に振るか、横に振るかはそばにいる正信の表情でわかったという。正信が目をつぶっていればノー、目を開いていればイエスだったとか。ややできすぎた逸話のようにも思うが、「家康の分身」ともいわれた正信ならありえそうなことだ。

そんな2人の関係性も一朝一夕にできたわけではない。江戸時代中期に成立した逸話集『常山紀談』では、豊臣秀吉の朝鮮出兵に際しての2人のやりとりが記録されている。

天正18(1590)年に北条氏を破り、名実ともに天下統一を果たした秀吉。その目はいよいよ海の向こうに向けられる。

そんななか、正信は家康にこう尋ねた。

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