NHK大河ドラマ「どうする家康」の放送で注目を集める「徳川家康」。長きにわたる戦乱の世に終止符を打って江戸幕府を開いた家康が、いかにして「天下人」までのぼりつめたのか。また、どのようにして盤石な政治体制を築いたのか。
家康を取り巻く重要人物たちとの関係性をひもときながら「人間・徳川家康」に迫る連載『なぜ天下人になれた?「人間・徳川家康」の実像』(毎週日曜日配信)の第20回は、家康と武田信玄が激突した「三方ヶ原の戦い」について解説する。
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想像以上に速かった武田信玄の進軍
よりによって、多くの戦国大名が戦うことを避けたがった武田信玄と、徳川家康は激突することになった。「3年間の鬱憤」を晴らすべく、信玄は遠江に侵入。猛攻を受けた家康は、二俣城を落とされまいと、浜松城を出て天竜川を越えたものの、武田軍のスピードは想像以上に速かった。
一言坂で激突すると、大軍の武田軍を前に、家康はやむなく撤退を決意。殿(しんがり)を務めた、本多忠勝と大久保忠佐の2隊の活躍によって、家康は天竜川を再び越えて、浜松城になんとか退却する(記事『怒る武田信玄が猛攻、家康の窮地救った忠臣の正体』参照)。
武田軍は孤立した二俣城へと攻め寄せていく。それでも中根正照や青木貞治ら徳川家の家臣たちが籠城してふんばっている。『三河物語』によると、「攻め落とそう」という信玄に対して、武田四天王の1人である山県昌景と、信虎の代から仕える重臣の馬場信春の2人がこう助言したという。
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