家康、信玄を怒らせ信長を戸惑わせる
武田と徳川は当初、今川領への侵攻を示し合わせていました。
同盟とまではいかなくとも、互いの歩調を合わせることで合意をしていたのです。しかし武田側が約束を違え、遠江から侵攻したことで、関係がややこしくなります。
家康は信玄に猛烈な抗議をし、信玄はこれを手違いということで詫びを入れて、合意のために家康が送った人質まで返しました。しかし家康はこれを許さず、あろうことか攻めていたはずの今川氏真と和睦します。さらに氏真を通じて、北条氏康と同盟を組みました。これによって信玄は背後に北条という大敵を抱え、今川攻めをいったん断念することになるのです。
翌年、再び今川領に侵攻した信玄は、今度は瞬く間に駿河を攻め落とします。信玄はその後も、同盟を結んでいた織田信長を通じて、家康との関係修復を図ろうとします。しかし家康は頑なな態度に終始し、信長のほうも調停を諦めるという事態に。このときの信玄の怒りは相当だったようで、信長の書状には「徳川家康はとんでもない奴だ」と認めていました。
その後、家康は信玄に対して正式に同盟破棄を通告し敵対関係を鮮明にします。戦国最強と目される武田信玄に、29歳の家康は非常に大胆な行動をとりました。一方の信長は、できるだけ信玄を挑発しないよう心を砕いています。
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