徳川家康に謀反「長篠の戦い」直前の恐ろしい事件 「大岡弥四郎事件」が起きた背景と事件のその後
今年の大河ドラマ『どうする家康』は、徳川家康が主人公。主役を松本潤さんが務めている。今回は家康・織田信長の連合軍と、武田勝頼率いる武田軍が戦った長篠の戦いの直前に起きた、家康への謀反事件について分析する。
天正2年(1574年)5月、甲斐国の武田勝頼は攻勢を強め、2万5000の大軍で遠江国への侵攻を開始し、徳川方の小笠原氏助が籠もる高天神城を攻囲した(5月12日)。二の曲輪、三の曲輪まで攻め込まれ、苦戦する同城を救うため、家康は織田信長に援軍を求めた。徳川軍は8000ほどの軍勢と言われており、単独での援軍は難しいと考えたからだ。
しかし、信長もすぐに出陣できるわけではなく、そうこうしているうちに、高天神城は曲輪を次々に武田軍に乗っ取られ、3日も持たないのではないかという状況に陥る(6月11日)。
城将の小笠原氏助は、早い段階から武田方に降伏の意思を示していたが、それに反発を示す者もいてなかなか開城はできないでいた。
高天神城がついに開城
家康の援軍も来ず、孤立無援であった高天神城は6月17日についに開城する。
一方で信長・信忠親子は高天城の開城の3日前に岐阜を出発し、落城した日に、三河国の吉田城(豊橋市)に入った。
6月19日に、信長は浜名湖と海を結ぶ「今切の渡し」を進もうとしたが「小笠原氏助が裏切り、高天神城に武田軍を引き入れた」との報を得て、仕方なく、吉田城に引き返した(『信長公記』)。
家康は、岐阜からわざわざ助力に来てくれた信長に感謝の想いを伝えるべく、浜松を発ち吉田城に向かう。
御礼を言った家康に対し、信長は「武田軍と戦できなかったことは無念」と言い、兵糧代として黄金を渡した。黄金は2つの皮袋に入っていたのだが、大人2人がかりで持ち上げなければならないほどの、おびただしい量であった。
徳川家臣はそれを見て、このような量の黄金を「見たことも聞いたこともない」と驚き、信長の威光に感嘆したという。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら