関ヶ原の戦い、「本当の勝者」は誰だったのか 教科書が教えない「徳川家康」以外の人物は?
敗者、毛利家が抱えるフラストレーション
江戸時代の某年正月――。
新たな年を迎え祝賀ムードに包まれる長門国萩城(山口県萩市)の本丸御殿で、整然と居並ぶ家臣たちを前に、ひとりの家老が藩主に問いかけました。
「殿、徳川を討つ準備が整いました。いかがいたしますか」
一同に緊張が走る中、藩主はこう答えます。「いや、まだ時期尚早である」と。
これは、長州藩(山口県)における恒例となった年頭行事の一幕で、「関ヶ原の戦い」で敗北し、それまでの所領を大きく減封された毛利家は、その屈辱を決して忘れることがなかったというエピソードとして広く知られる俗説のひとつです。
「関ヶ原の戦い」では、敗北した西軍大名の大半が「改易(領地没収)」「減封(石高減少)」といった憂き目に遭う一方で、勝者となった東軍大名もその後の江戸幕府の下で、必ずしも「十分な待遇と安泰」を約束されたわけではありませんでした。
では、この戦いでの「最終的な真の勝者」はいったい誰だったのか。
少し見方を変えれば、実際の表面上の勝敗とは別に、あの「意外な大名」が浮かび上がります。
今回は、「関ヶ原の戦い」をテーマに、東軍のリーダー徳川家康をもしのぐ「本当の勝者」について解説します。
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