関ヶ原の戦い、「本当の勝者」は誰だったのか 教科書が教えない「徳川家康」以外の人物は?

著者フォロー
ブックマーク

記事をマイページに保存
できます。
無料会員登録はこちら
はこちら

印刷ページの表示はログインが必要です。

無料会員登録はこちら

はこちら

縮小
Q5. では、勝者となった東軍大名への褒賞は?

大部分の大名が所領を加増されました。これは、多数の敗れた西軍大名が改易、減封により所領を失ったためです。

なかには、それまでの所領が数倍に大幅アップした大名もいました。通常では1回の合戦でこれほどの褒賞を得ることはまずなく、非常にまれなケースです。

所領はかなり増えたものの…

Q6. 大幅に加増された大名は、さぞかしうれしかったのでは?

もちろん、喜んだでしょう。しかし、新たな領地は元の所領地からも遠く、しかも地元事情にも希薄な土地勘もない「遠隔地」だったため、少なからず不安も抱いたはずです。

山内一豊 遠江国掛川(静岡) 6万8000石 → 土佐国浦戸(高知) 22万2000石

池田輝政 三河国吉田(愛知) 15万石 → 播磨国姫路(兵庫) 52万石

細川忠興 丹後国宮津(京都) 18万石 → 豊前国小倉(福岡) 39万9000石

 

Q7. 東軍大名は、江戸幕府での地位は安泰でしたか?

いいえ。まだ創設して間もない江戸幕府は「天下普請」の名の下、江戸をはじめとする各地の城郭整備や道路、河川工事への負担を大名に絶えず強いたほか、大名が1年おきに領国と江戸を行き来する「参勤交代」を課すなど、藩の経営はつねに厳しい状況でした。また、家中での不祥事等により「改易」となる事例も多く、決して安泰ではありませんでした。

福島正則 尾張国清洲(愛知) 20万石 → 安芸国広島(広島) 49万8000石 → 寛永元(1624)年、改易

小早川秀秋 筑前国名島(福岡) 35万7000石 → 備前国岡山(岡山) 51万石 → 慶長7(1602)年、改易

 

Q8. 西軍大名は「どんな末路」をたどったのですか?

基本的には領地没収のうえ、死罪や流罪、追放などの処罰を受けるか、大幅に所領を減らされました。江戸幕府では彼らを「外様」と呼び、幕閣の中枢からはるかに懸け離れた扱いでした。

しかし、なかにはこうした逆境にもめげず、さまざまな面から「勝者(東軍)を凌駕した旧西軍大名」も少なくありません。

次ページ「戦」に負けたが「大逆転」した敗者たち
関連記事
トピックボードAD
キャリア・教育の人気記事