関ヶ原の戦い、「本当の勝者」は誰だったのか 教科書が教えない「徳川家康」以外の人物は?
大部分の大名が所領を加増されました。これは、多数の敗れた西軍大名が改易、減封により所領を失ったためです。
なかには、それまでの所領が数倍に大幅アップした大名もいました。通常では1回の合戦でこれほどの褒賞を得ることはまずなく、非常にまれなケースです。
所領はかなり増えたものの…
もちろん、喜んだでしょう。しかし、新たな領地は元の所領地からも遠く、しかも地元事情にも希薄な土地勘もない「遠隔地」だったため、少なからず不安も抱いたはずです。
山内一豊 遠江国掛川(静岡) 6万8000石 → 土佐国浦戸(高知) 22万2000石
池田輝政 三河国吉田(愛知) 15万石 → 播磨国姫路(兵庫) 52万石
細川忠興 丹後国宮津(京都) 18万石 → 豊前国小倉(福岡) 39万9000石
いいえ。まだ創設して間もない江戸幕府は「天下普請」の名の下、江戸をはじめとする各地の城郭整備や道路、河川工事への負担を大名に絶えず強いたほか、大名が1年おきに領国と江戸を行き来する「参勤交代」を課すなど、藩の経営はつねに厳しい状況でした。また、家中での不祥事等により「改易」となる事例も多く、決して安泰ではありませんでした。
福島正則 尾張国清洲(愛知) 20万石 → 安芸国広島(広島) 49万8000石 → 寛永元(1624)年、改易
小早川秀秋 筑前国名島(福岡) 35万7000石 → 備前国岡山(岡山) 51万石 → 慶長7(1602)年、改易
基本的には領地没収のうえ、死罪や流罪、追放などの処罰を受けるか、大幅に所領を減らされました。江戸幕府では彼らを「外様」と呼び、幕閣の中枢からはるかに懸け離れた扱いでした。
しかし、なかにはこうした逆境にもめげず、さまざまな面から「勝者(東軍)を凌駕した旧西軍大名」も少なくありません。
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