関ヶ原の戦い、「本当の勝者」は誰だったのか 教科書が教えない「徳川家康」以外の人物は?

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Q9. 結局、関ヶ原の戦いにおける「真の勝者」は誰だったのでしょう?

長い目で見れば、「最終的な勝者」はこの人物だったと思います。

【まさに大逆転】島津義弘(1535~1619)
 薩摩国鹿児島(鹿児島)・西軍 島津家の所領60万9000石→所領安堵

島津義弘は「戦国屈指の猛将」として、豊臣秀吉の朝鮮出兵でも敵軍に最も恐れられるなど、天下にその名を知られた人物です。

「関ヶ原の戦い」では諸々のなりゆきから西軍に属し、予備兵力として出撃の機会をうかがっていました。

しかし、小早川秀秋の裏切りによって、早々に味方の戦線が崩壊し大混乱に陥ったため、前方の徳川本陣など敵陣を突破する強攻策で多くの犠牲を出しながらもかろうじて脱出に成功しました。

戦後は、領内の温存兵力と薩摩近海を航行する貿易船の妨害をカードに、徳川家康と「巧みな外交交渉」を続けます。

その結果、改易はおろか、所領も安堵されるという幸運を勝ち取りました。

苦節268年、ついに「関ヶ原のリベンジ」を果たす

島津家ではさらに、1609年に琉球(沖縄)へ侵攻し、農作物や特産品の収奪や、琉球を傀儡(かいらい)にした海外貿易で藩政を潤したほか、2人の将軍(11代家斉、13代家定)に正室を出すなど、「徳川家の姻戚」として江戸後期の幕政に大きな影響を及ぼしました。

そして幕末に至り、ついには同じ「関ヶ原での敗者」毛利家と薩長同盟を結び、「徳川家(東軍)を倒す悲願のリベンジ」を果たすわけです。

ちなみに、天皇陛下の妹の貴子さまの降嫁先も島津家であり、いまや皇室とも縁戚関係です。

「関ヶ原の戦い」に敗れた西軍大名は、その多くが過酷な処分を受けましたが、それを生き永らえた大名の中には、形はさまざまながらも「勝者(東軍)以上の成功」を収めた人物も存在しました。

現代のビジネス社会も「勝つか負けるか」のシビアな世界です。しかし、「目の前の戦い」には敗れても、「長期的な勝利」を得る方法はある、というのが「関ヶ原の戦い」の教訓でもあります。

「歴史を知る」ことで、「人生の失敗や敗北」に直面したときに、それを克服するためのヒントをぜひ見つけてください。歴史に学ぶ人ほど「強く生きる」ことができるからです。

山岸 良二 歴史家・昭和女子大学講師・東邦大学付属東邦中高等学校非常勤講師

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やまぎし りょうじ / Ryoji Yamagishi

昭和女子大学講師、東邦大学付属東邦中高等学校非常勤講師、習志野市文化財審議会会長。1951年、東京都生まれ。慶應義塾大学大学院修士課程修了。専門は日本考古学。日本考古学協会全国理事を長年、務める。NHKラジオ「教養日本史・原始編」、NHKテレビ「週刊ブックレビュー」、日本テレビ「世界一受けたい授業」出演や全国での講演等で考古学の啓蒙に努め、近年は地元習志野市に縁の「日本騎兵の父・秋山好古大将」関係の講演も多い。『新版 入門者のための考古学教室』『日本考古学の現在』(共に、同成社)、『日曜日の考古学』(東京堂出版)、『古代史の謎はどこまで解けたのか』(PHP新書)など多数の著書がある。

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