関ヶ原の戦い、「本当の勝者」は誰だったのか 教科書が教えない「徳川家康」以外の人物は?

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合戦に負けても、今度はまったく異なる戦いで家康に勝利した大名、また、東軍大名以上の家格や権威を手にした大名がいました。

勝利の形はさまざま

【長寿で勝利】宇喜多秀家(1572~1655)
 備前国岡山(岡山)・西軍副将 57万4000石→改易

若くして豊臣秀吉に武勇を見込まれ、彼の養女(前田利家の娘)を娶(めと)った宇喜多秀家は、21歳で文禄の役の大将に任じられるなど、数々の戦場で手柄をあげ、秀吉から厚い信頼を受けていました。隣国の大大名毛利家との関係も深く、豊臣政権の中枢の1人でした。

「関ヶ原の戦い」でも、西軍最大の軍勢を率いて東軍の猛攻に一進一退の攻防を繰り広げますが、小早川秀秋の裏切りをきっかけに西軍は敗北し、宇喜多秀家は所領をすべて没収のうえ、伊豆八丈島(東京都八丈町)に配流されました。

しかし彼はその後、妻の実家である前田家などからの援助もあり、この地でおおむね健康に50余年に及ぶ長い流人生活を送り、4代将軍家綱の治世となる明暦元(1655)年に、「家康(75歳)を上回る84歳の天寿」を全うしました。

【家康の孫ゲット】鈴木重朝(雑賀孫市)(生没年不詳)
 紀伊国平井(和歌山)・西軍 1万石→改易

代々鉄砲の名手として知られ、石山合戦では織田信長を何度も撃退した雑賀(さいか)党出身の鈴木重朝(しげとも・孫三郎・雑賀孫市〈まごいち〉)は、その才能を秀吉に見いだされ、豊臣家の鉄砲頭を務めました。

「関ヶ原の戦い」では、前哨戦となった山城国伏見城(京都市伏見区)の攻略に参加し、守将の鳥居元忠を討ち取る活躍でしたが、敗戦により改易となりました。

しかし、彼の優れた技量が見込まれたのでしょう、やがて徳川家康に召し抱えられ、徳川御三家のひとつ水戸徳川家に仕官がかなうと、続いて息子の代には「藩主頼房の子(家康の孫)を養子」に迎えたことで、鈴木家は水戸藩の家老格となるなど、華麗な復活を遂げました。

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