徳川家康「姉川の戦い」前後で見せた驚異の対応力 浜松城築城という織田信長のむちゃぶりも解決

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浜松城
徳川家康が引間城を拡張する形で築城した浜松城(写真:Hiroko/PIXTA)
NHK大河ドラマ「どうする家康」の放送で注目を集める「徳川家康」。長きにわたる戦乱の世に終止符を打って江戸幕府を開いた家康が、いかにして「天下人」までのぼりつめたのか。また、どのようにして盤石な政治体制を築いたのか。
家康を取り巻く重要人物たちとの関係性をひもときながら「人間・徳川家康」に迫る連載『なぜ天下人になれた?「人間・徳川家康」の実像』(毎週日曜日配信)の第18回は、家康が姉川の戦い前後で見せた驚異の対応について解説する。
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「姉川の戦い」直前に浜松城へ移った徳川家康

どんなときでも「慎重に動く」。それこそが、人生で最も重要なことではないだろううか。徳川家康の生涯をたどっていると、そんな思いさえ抱いてしまう。何も「行動を急ぐべきではない」と言っているわけではない。むしろ、その逆である。「慎重に考えて、いち早く動く」ことを実践し続けたのが、家康であった。

「姉川の戦い」では、姉川の北に位置する浅井・朝倉軍に対して、信長軍に加勢した家康が率いる軍は姉川の南に布陣した。川を挟んで両軍が激突すると「家康の軍は敵の陣を討ち破り、追いかけつつ、ここかしこで敵を殺す」(『三河物語』)とあるように、存在感を十分に発揮した。

なにしろ、家康は信長を相手に「一番隊でなければ、戦に協力しない」とまで啖呵を切ってしまっている。活躍しないわけにはいかなかったのだろう(『「浅井長政」攻め前日、徳川家康「信長に抗議」の内幕』参照)。

一方で、家康は引馬城を拡張する形で浜松城を築城。「姉川の戦い」へと出発する前に、岡崎城から自分の居城を移している。警戒したのは、甲斐の武田信玄だ。

なにしろ信玄は、浅井・朝倉と同盟を組んでいる。家康が織田信長にしたがって、浅井・朝倉との対立を深めれば、信玄が敵に回ることは明白だ。ならば、信玄の来襲に備えて、居城を移しておく必要があると家康は考えたようだ。

目前に迫る戦はもとより、家康の眼は遠江をめぐる情勢へと向けられていた。だが、この居城の移転は、スムーズに行われたわけではなかった。

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