徳川家康「姉川の戦い」前後で見せた驚異の対応力 浜松城築城という織田信長のむちゃぶりも解決

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『当代記』にはバタバタする家康の様子が記載されている。城の工事を急がせながら、石垣や長屋なども作り、三河遠江の武士たちを移らせている。それでも城作りに集中できればまだましだが、信長軍をサポートするために、4月には越前に、6月下旬には近江に出征しながらの工事である。前述したように6月には家康が浜松城に入城したものの、改修工事はその後も続いた。家康が本城へと無事に移れたのは9月12日とされている。

よくもまあ「金ヶ崎の退き口」のような脱出劇と並行して、こんな築城プロジェクトをやってのけたものである。「金ヶ崎の退き口」では浅井長政の裏切りによって、朝倉と挟み撃ちされそうになった信長がいち早く退却。放置された家康は、「殿(しんがり)」を命じられた羽柴秀吉とともに、命からがら退却に成功している。

暴走する信長についていくには「慎重に考えて早めに動く」しか方法はなかったのかもしれない。岡崎城からの居城変更については、信長から思わぬ横やりがはいったものの、それでも早めに手がけていたことで、信玄の来襲前に間に合わせられたともいえるだろう。

武田信玄の宿敵「上杉謙信」と同盟を締結

早めに手を打つ家康の姿勢は、外交面でも大いに発揮されている。当初こそ信玄と手を組んで、今川義元亡きあとの今川領を切り取っていたが、信玄の行動がどうも信用できないと家康は判断。すばやく次なる行動に移っている。

家康はあろうことか信玄の宿敵、上杉輝虎(のちの上杉謙信)にアプローチを開始する。元亀元(1570)年8月には使者として、僧の叶坊(かのうぼう)光幡を派遣し、交渉の下地を整えている。その後、重臣たちのやりとりが盛んに行われた。そうした手順を踏みながら、10月には同盟の締結に成功している。

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