NHK大河ドラマ「どうする家康」の放送で注目を集める「徳川家康」。長きにわたる戦乱の世に終止符を打って江戸幕府を開いた家康が、いかにして「天下人」までのぼりつめたのか。また、どのようにして盤石な政治体制を築いたのか。
家康を取り巻く重要人物たちとの関係性をひもときながら「人間・徳川家康」に迫る連載『なぜ天下人になれた?「人間・徳川家康」の実像』(毎週日曜日配信)の第14回は、今川領をめぐる徳川家康と武田信玄の駆け引きについて解説する。
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今川側の重臣を巧みに取り込んだ徳川家康
「家康はどんな性格だったと思いますか?」
先日、本連載をきっかけに海外メディアから取材を受ける機会があり、こんな質問を投げかけられた。幼少期の人質生活から、忍耐強さが強調されやすい家康。ややもすれば「ひたすら待ち続けて天下が転がり込んできた」というイメージで語られたりする。
だが、織田信長が今川義元を討ち破った「桶狭間の戦い」を機に、今川氏をあっさり見切っているところからも、実のところは「機を見るに敏」。慎重だからこそ、将来を見据えて行動するという一面が家康にはあった。
そんな家康は一向一揆を抑えて三河を平定したのち、今川領の遠江への侵攻を開始する。永禄11(1568)年12月のことだ。
手始めに今川側の近藤康用、菅沼忠久、鈴木重時の3人を調略。遠江侵攻の案内役を務めさせている。この3人に対して、家康は12月12日付で、次のような起請文を書いた。
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