徳川家康、見限った今川氏真と和睦した果敢な思惑 手を結んだ武田信玄を信用することなく行動

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江戸初期に集成された軍学書『甲陽軍艦』では、信玄の戦略や戦術が記されている。そこでは、家康と取り決められたことのニュアンスが大きく違っている。

「信玄公は駿河を治めるので、大井川を境にして遠州を、家康の手柄で切り従えてよい」

この場合は、家康が遠州を落とせるならば、手中にしてもよいということになる。早まって遠江まで侵略しようとした武田勢を、家康が牽制したのだろうか。いずれにしても、家康の抗議を受けて、信玄は駿府に兵を引き上げさせている。

武田信玄をつねに警戒していた家康

注目したいのは、信玄と連携しながらも、家康が決して相手を信じてはいなかったということだ。

なにしろ、信玄は率いる武田氏は、もともと天文21(1552)年ごろより、駿河の今川氏、相模の北条氏と相互に婚姻関係を結び、同盟を結んでいた。のちに「駿甲相三国同盟」と呼ばれるもので、三者間では和平が維持されていたのだ。

それにもかかわらず、桶狭間の戦いで今川義元が討たれると、信玄は態度を急変。前述したように、わが子を死に追いやってまで、今川氏との同盟を破棄。こうして家康に連携を持ちかけて、積極的に今川氏の所領を刈り取ろうとしたのだ。

弱みを見せればすぐに付け込まれるのがつねの時代とはいえ、家康からすれば、武田に警戒心を強めたのは無理からぬことだろう。慎重に慎重を期した家康だが、行動に消極的だったわけではない。慎重だからこそ、違和感はすぐに解消させようとした。

いち早く動くことで、イニシアチブをとれることもある。両者は年が明けてから、永禄12(1569)年2月に起請文を交わしたが、それは信玄方から願い出ている。家康を「今は」敵に回したくはないという思いが、信玄にあったのだろう。

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