「かの今川氏真は、日に日に家人たちに疎まれて、離反者が多くなっていく。その様子を見て甲斐の武田信玄入道は、情け容赦なく、甥舅の関係を捨てて軍勢を出し、駿河の国は言うまでもなく、氏真が領有していた国や郡を侵略して奪おうとした。氏真はどうしてこれを防げただろうか」
「甥舅の関係を捨てて」のところは、説明が必要だろう。信玄の子である義信は、氏真の妹を妻として迎えていた。そのため、今川氏の領地に攻め込むにあたって、信玄は息子の義信と対立する。
親子の対立は、家臣をも二分する騒ぎとなったが、信玄は義信派を粛正。さらに義信を幽閉して、わが子を自害へと追い込んでいる。自身が父を追放しているだけに、息子の存在が脅威になりかねないと考えたのかもしれない(『徳川家康、武田信玄が名将に育った幼少の過酷体験』参照)。
追い込まれた氏真は、重臣の朝比奈泰朝に保護されて、掛川城へと逃げ込んでいる。氏真の敗走によって、信玄はあっさりと駿府を手中におさめることとなった。
家康が手紙で武田信玄に怒ったワケ
家康と信玄との連係プレーは、万事が順調に進んだかにみえた。だが、家康は驚くべき事態に直面する。武田方の秋山虎繁が率いる軍勢が、遠江の北部へと侵攻してきたのである。
これでは約束がまったく違う。家康はすぐさま信玄に抗議した。『三河物語』には、こうつづられている。
「大井川を境に駿河を信玄の領分、大井川を境に遠江が家康の領分と定まっているのに、 秋山が出陣してきたのは横車を押すことになる。すぐに引き返されよ」
しかし、一方の信玄は12月12日付の書簡で「手合せのため、急速に御出張、本望満足に候」と家康が迅速に出兵したことに喜び、さらに「早々懸河へ陣を詰め、もっともに候」と書き「掛川城に駆け込んだ氏真を討つべし」と家康に依頼しているのだ。
両者の認識に、何か行き違いがあったのだろうか。「大井川の境界」について齟齬があったという説もあれば、そもそも戦況に応じての約束だったという説もある。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら