「今度両三人馳走をもって、井伊谷筋を遠州口ヘ打ち出づべきの旨、本望なり。それについて、所々出だしおく知行分の事、永く相違なく、不入として、扶助しおわんぬ」
家康は寝返ったお礼として、現在の浜松市北区にあたる「井伊谷」の土地を保証。この3人はのちに「井伊谷三人衆」と呼ばれることになる。
こうして所領や所職などの知行を保障したり(知行安堵)、恩賞を与えると約束したりすることで(恩賞給付)、今川氏の家臣たちを寝返らせることに成功。この時点で永禄3(1560)年に岡崎城で独立してから、はや8年が経つ。もはや勢いに任せて、ただ攻め入るだけの家康ではなかった。
武田信玄と連携して今川領を侵攻
このときに家康が連携したのが、甲斐の武田信玄だ。『三河物語』によると、信玄から次のような提案があり、両者は申し合わせたとされている。
「家康は遠江を大井川までとれ、私は駿河をとろう」
つまり、東西から挟み撃ちにすることで、今川氏を滅亡させ、その後は「大井川を境界にし、東部を武田領、西部を徳川領にする」という密約を結んだといわれている。
家康が永禄11(1568)年12月に遠江への侵攻を開始したのは、そんな信玄の意向に合わせたものだった。信玄もまた同じタイミングで駿河侵攻を実行に移す。
信玄の調略によって、瀬名信輝、葛山氏元、朝比奈政貞、三浦義鏡など今川氏の有力家臣が次々と武田方に寝返っている。当初は信玄に対抗した今川氏真も、これには撤退するほかなかった。
父亡きあとは散々な目に遭っている氏真について、江戸幕府の公式史書『徳川実紀』では、こんなふうに書かれている。
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