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「金融政策だけじゃない、満州の取材をしていた」…元日銀副総裁にしてノンフィクション作家の藤原作弥さんが生前語った引き揚げ記秘話【前編】

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藤原作弥(ふじわら・さくや)/ノンフィクション作家、元日本銀行副総裁。1937年宮城県生まれ。44年、旧満州国へ移住。終戦を迎える。東京外国語大学フランス学科卒業後、62年時事通信社入社。ワシントン特派員、解説委員長などを経て98年〜2003年日本銀行副総裁。25年10月17日死去(編集部撮影、25年3月26日)
戦後80年にあたる2025年、ジャーナリスト、ノンフィクション作家であり日銀副総裁を務めた藤原作弥さんが10月17日、88歳で死去した。
8歳のとき終戦を満州の国境の町・安東(現在の丹東市)で迎え、1年半後の引き揚げまで難民生活を送った。1984年、時事通信記者の傍ら、『満州、少国民の戦記』を著し、当時の状況を克明につづった。『李香蘭 私の半生』(1987年、山口淑子さんとの共著)では、日本人でありながら中国人として、日本の傀儡国家だった満州国の宣伝を担ったスターの数奇な運命をたどった。
経済記者、そして日銀副総裁という顔と「満州」はどう絡み合っていたのか。死去する半年前のインタビューで語った引き揚げ体験記の誕生秘話。

――『満州、少国民の戦記』を著したのはなぜ、当時から40年近く経った後の1984年だったのでしょうか。

私が安東という町で送った難民生活を振り返るために、休みを使って安東に2回訪問したのですが、中国国内を自由に歩き回って調べて書くことが、ようやく許されたころでした。後になってもっと厳しくなった時代もありますから、端境期のようだったと思うんです。そういう意味ではラッキーだったというか。

ある1つの世界を描くには、現場に実際に行って自分で確かめることが原点です。自分の記憶は曖昧だったので、まず一番知っている父に話を聞き、父から誰に聞けばいいのかアドバイスをもらって話を聞いて回り、そして問題意識をもって当時の場所をめぐりました。

【注】藤原さんの父はソ連国境に近い興安街(現在のウランホト)にあるモンゴル人向け陸軍士官学校で日本語教師をしながら言語民俗学の研究をしていた。ソ連侵攻を前にした1945年8月10日に一家は鉄道で脱出し、朝鮮国境の安東にたどり着くもソ連軍が国境を封鎖したため、安東に留め置かれた。

――それまでお父様から話を聞く機会はあったのですか。

父のほうから昔のことを話すことはなかったです。満州から引き揚げた人はそれぞれ厳しい体験を持っているけれど、人に話すことも、身内の同じ体験者同士で話す機会も日常生活の中ではないものです。

小さな男の子が見ていた闇の世界

――満州での経験を書こうと思ったきっかけは。

満州の本の前に、肝炎での入院生活をつづった『聖母病院の友人たち』という本を1982年に出していました。週1回のコラム(時事通信社『金融財政ビジネス』で長年連載)で書いたら読者の関心が高く、記者仲間の勉強会のリーダーだった粕谷一希さん(元中央公論編集長)に本にまとめてみないかと勧められたからです。

日本エッセイストクラブ賞を受賞して、よかったと思っていたら、粕谷さんが今度は「君には病院の入院体験だけじゃなくて、日本が戦争に負けたとき敗戦国民として満州で過ごしたという得がたい経験がある。小さな男の子が闇の世界をどう見ていたのか、一冊の本に書けばどうか」と。

40代になってふと少年時代を振り返ると、自分でもおそろしい、と思いました。

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