利上げ発表後に日本株が急落しても、日銀批判は限定的だった。組織が炎上したとき、日銀は対応できるか。
日本銀行が炎上した。1923年9月1日。関東大震災が東京を襲った日のことだ。
『日本銀行百年史』(第3巻)によれば、地震そのものの被害は小さかったが、震災発生当日の夕方から夜半にかけて、周辺の建物を焼いた火の手が、石造りの本館(現在の旧館)3階の窓から内部に入り込んだという。
当時理事だった深井英五(後の総裁)は現場で見た情景を次のように記している。
「銀行の内部には處々(ところどころ)火炎がきらめいて居る。消防車が一臺(いちだい)、濠の水を窓から中に注いで居たが、建物が廣いから効果が少ない」(『回顧七十年』、原文ママ、ルビは編集部追加、以下同じ)
「経済の停止」阻止へ消防に要請
深井はその後、消防との交渉に出向いた。
「消防車は三臺あったが、消防手は疲れはてゝ居るし、日本銀行はもう駄目ぢゃありませんかと云って中々乗り出して呉れない」
「私は更らに語を盡(つく)して曰(いわ)く、日本銀行は石造で内部が細かく仕切ってあるから、火の廻はりが遅い、今の内肝要の部分を消し止めれば明朝開店が出来る、若し開店が出来なかったら、全經濟(けいざい)の停止で官民ともに災害の手當(てあて)にも差し支へるから是非奮發(ふんぱつ)を願ひたいと」
「全経済の停止」とまで言われ、震災対応で消耗していた消防士たちもようやく重い腰を上げた。だが、結局火災は3階のほとんど、2階と1階の一部を焼き、翌日の正午ごろようやく鎮火した。
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