*2025年8月22日6:00まで無料の会員登録で全文をお読みいただけます。それ以降は有料会員限定となります。

日本が高度経済成長期をむかえたのは、敗戦からわずか10年後のことであった。世界でも突出した経済成長率は、とくに民間の設備投資に主導された。戦争によって大幅に経済規模が縮小していた日本経済は、10年で大きく再建されたのである。
この間、傾斜生産・金融、朝鮮戦争特需など経済の回復を支えた要因はいくつもあるが、大前提として日本が巨額の賠償金から逃れられたという事実がある。
第2次世界大戦において、アジア・太平洋地域を占領し中国をはじめ多くの国民・民族に被害を与えた日本は、まぎれもなく戦争の加害者であった。にもかかわらず、サンフランシスコ平和条約は、原則として連合国とその国民は日本に対するすべての賠償請求権を放棄することを定めた。
この限定的賠償の背景にあったのが、日本人の「在外財産」である。
当初は「日本の工場設備をアジアへ」
アメリカの対日占領政策は、日本の非軍事化と民主化を目的としていた。問題は、日本にどの程度の経済回復を許すか、すなわちどれだけの賠償を課すか、ということであった。
初期の対日賠償問題を担当したエドウィン・ポーレーは、懲罰的な賠償構想を持っていた。産業の非軍事化(Industrial disarmament)のために日本の工場設備を撤去しアジア地域に移転すること(中間賠償)を賠償の主な手段と考えていた。
1946年12月、朝海浩一郎終戦連絡中央事務局総務部長は、ジョージ・アチソン対日理事会アメリカ代表との会談において、ポーレーの賠償計画は「極めて峻厳である」と述べている。朝海は繰り返し、現在の脆弱な経済では賠償に耐えられないと訴えた。
すでに11月の日本国憲法公布により、日本の非軍事化は制度上達成されていた。ポーレーの計画にはGHQ(連合国軍総司令部)やアメリカ政府内でも反対意見があり、中間賠償が移転先の国の経済に効果があるのかも疑わしかった。
そのうち、アメリカの対日占領政策が大きく転換する。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら