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「なぜ日本は戦争に至ったのか」ーー元日銀副総裁にしてノンフィクション作家・藤原作弥さんが生前語った「他人事ではない悲劇」と幻の作品【後編】

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2025年8月14日 五百羅漢寺(編集部撮影 )
戦後80年を経た2025年夏。東京都目黒区にある五百羅漢寺の境内では、「興安友愛の碑」に手を合わせる人たちがいた。8月14日午前11時40分。ちょうど80年前、旧満州の興安街から避難途中の日本の民間人1000人以上がソ連軍に虐殺された「葛根廟事件」の生存者や被害者遺族だ。
だが例年足を運んでいた一人の姿はなかった。ジャーナリスト、ノンフィクション作家であり日本銀行副総裁を務めた藤原作弥さん。体調不良のためで、その2カ月後の10月17日、88歳で死去した。
藤原さんは時事通信記者の傍ら、終戦後に満州の国境の町・安東で送った難民生活を『満州、少国民の戦記』に著した。(前編に誕生秘話
その付記として、葛根廟事件のことを記している。間一髪だったからだ。小学校の同級生の大半が葛根廟事件で命を落としていた。生き残り、中国残留孤児となった人たちもいた。執筆に向けて自身の満州体験を振り返ったとき並行して判明したことだった。
死去する半年前のインタビューで語っていた思いとは。

藤原さん

事件のことを知ったのは、40年も経ってからのことです。生存者1人1人から聞いた断片的な話を総合すると全貌がわかった。本当に修羅場だよ。声を出して泣き出したほどのショックでした。

もしかしたら自分も悲劇に遭っていたかもしれない

ソ連の戦車軍団に襲われて、戦車から機関銃で撃たれ、兵士が自動小銃を持って撃ってくる。ダイナマイトで自爆するグループもいたし、青酸カリを飲む人も、子どもをナイフで突き殺す母親もいた。それらのシーンが葛根廟(ラマ寺院)のふもとで同時多発的に地獄絵図のように繰り広げられていた。その全貌がわかったときの感情はちょっと今、表せないけれど。

藤原作弥(ふじわら・さくや)/ノンフィクション作家、元日本銀行副総裁。1937年宮城県生まれ。44年、旧満州国へ移住。終戦を迎える。東京外国語大学フランス学科卒業後、62年時事通信社入社。ワシントン特派員、解説委員長などを経て98年〜2003年日本銀行副総裁。25年10月17日死去(編集部撮影、25年3月26日)

自分はもしかしたら自分もあの悲劇に遭ったかもしれない。それを知ったのは40年も後のことだった。『満州、少国民の戦記』では、僕の満州での自伝的ストーリーを終わりにした後に、これで終わってはいけない、葛根病事件のことを、なぜもっと早く知っていなかったのかも含めて究明する必要があるという意味で、意識して一番最後に置きました。

自分が体験しなかったのは、他の人よりも数時間早く逃げることができたから。それはなぜかといえば、父が陸軍士官学校に勤めていたからで、軍人ではなく日本語を教えるシビリアン(文民)だったけれど、葛根廟事件に遭った一般の人よりも軍に近かった。それが時間差に表れています。軍に関係する人が一番早く逃げ、次に関係のあるわれわれが逃げ、軍に関係がなく逃げ遅れた人が事件に遭った。

だから他人事とは思われない。その思いがalways(いつも)、僕に付きまとってきました。自分が体験していないからこそ、自分の歴史の中での大事件でもあるんです。

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