「なぜ日本は戦争に至ったのか」ーー元日銀副総裁にしてノンフィクション作家・藤原作弥さんが生前語った「他人事ではない悲劇」と幻の作品【後編】
藤原さん
事件のことを知ったのは、40年も経ってからのことです。生存者1人1人から聞いた断片的な話を総合すると全貌がわかった。本当に修羅場だよ。声を出して泣き出したほどのショックでした。
もしかしたら自分も悲劇に遭っていたかもしれない
ソ連の戦車軍団に襲われて、戦車から機関銃で撃たれ、兵士が自動小銃を持って撃ってくる。ダイナマイトで自爆するグループもいたし、青酸カリを飲む人も、子どもをナイフで突き殺す母親もいた。それらのシーンが葛根廟(ラマ寺院)のふもとで同時多発的に地獄絵図のように繰り広げられていた。その全貌がわかったときの感情はちょっと今、表せないけれど。
自分はもしかしたら自分もあの悲劇に遭ったかもしれない。それを知ったのは40年も後のことだった。『満州、少国民の戦記』では、僕の満州での自伝的ストーリーを終わりにした後に、これで終わってはいけない、葛根病事件のことを、なぜもっと早く知っていなかったのかも含めて究明する必要があるという意味で、意識して一番最後に置きました。
自分が体験しなかったのは、他の人よりも数時間早く逃げることができたから。それはなぜかといえば、父が陸軍士官学校に勤めていたからで、軍人ではなく日本語を教えるシビリアン(文民)だったけれど、葛根廟事件に遭った一般の人よりも軍に近かった。それが時間差に表れています。軍に関係する人が一番早く逃げ、次に関係のあるわれわれが逃げ、軍に関係がなく逃げ遅れた人が事件に遭った。
だから他人事とは思われない。その思いがalways(いつも)、僕に付きまとってきました。自分が体験していないからこそ、自分の歴史の中での大事件でもあるんです。



















無料会員登録はこちら
ログインはこちら