姉川の合戦が始まったのが元亀元(1570)年6月28日。同じ元亀元年6月、戦が行われる前のタイミングで、家康は居城を浜松城へと移している。だが、その前年の秋から居城を移そうと普請、つまり建築の工事をすでに行っていた。
当初は、現在の磐田市に位置する「見付」に移ろうとしていたらしい。というのも、見付は古代から遠州地方の中心地であり、今の県庁にあたる国府が置かれていた。遠江の守護となった今川範国が、守護所を置いたのも見付である。
『三河物語』にも、「見付之国府を御住所に成され……」とあるように、家康は中心地である見付を拠点にして、遠江を支配するというビジョンを持っていたのである。
それにもかかわらず、なぜ家康は見付ではなく、浜松へと移ったのだろうか。『三河物語』の続きには、こんなふうに書かれている。
「ここはその場所ではない、と浜松に引かれて、城をつくりそこに居住なさった」
いきなり「やっぱりこの場所ではない」と言い出すとは、ずいぶんと唐突である。すでに工事も始まっており、屋敷持ちの家臣たちも移住し始めていたというのに、いったいどうしたというのか。
ここでもやはり、信長からの知られざる「むちゃぶり」があった。
信長が城の工事を中止させたワケ
『当代記』には「見付普請相止也、是信長異見給如此」とある。どうも信長の意見が違ったために、家康が着手した見付での工事は中止されることになったらしい。信長の意見とは、次のようなものであった。
「もし、信玄と敵対した場合に、お主が見付にいたら、どうなるか。天竜川が邪魔になって救援に向かうことができないではないか。もし、渡ることができたとしても、川を背にすることになってしまう。居城は浜松にしたほうがよいだろう」
信玄の来襲に備えるべし、という考えは家康も信長も同じだが、その方法論が異なったらしい。家康がそれを聞いて納得したのか、それとも逆らえなかったのかは定かではない。ただ「それなら早く言ってくれ」とは思っただろう。
家康は信長の意見に従い、見付での築城を中止。改めて浜松の地で城の普請を始めて、都市づくりを始めることとなった。
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