徳川家康に謀反「長篠の戦い」直前の恐ろしい事件 「大岡弥四郎事件」が起きた背景と事件のその後

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計画は現実のものとなるかに見えたが、弥四郎の同志と思われた山田八蔵が「家康様を討てないということもあろう。そうなれば、弥四郎の仲間である自分も危ない」と思い、家康に謀反計画を密告するのである。

そうとも知らない弥四郎は妻に向かい「私は謀反しようと思う」と告げていた。妻は最初は本気にしなかったが、弥四郎が重ねて真顔で言うのを聞いて驚き、夫を恩知らずとして、謀反を思いとどまることを勧める。

「間違いなく、あなたはご主君からの罰を受け、世間から詰られ、死ぬことになる。私も火炙り、磔(はりつけ)となり死ぬことになる。それなら、今、殺して」とまで妻は諫言した。しかし、弥四郎は「訳の分からぬことを言う。お前をこの城に移し、御台所の立場にしたいのだ」と聞き流した。妻は重ねて、夫の謀反を止める言葉を口にするが、それ以上は何も言わなかった。 

そして、妻の預言通り、弥四郎は捕縛された。同志の倉地平左衛門尉は、逃走中に斬殺。小谷甚左衛門尉は、服部半蔵が捕らえようとしたが、天竜川を泳いで逃げ、その後、甲斐国に入ったと『三河物語』に記されている。

弥四郎はキツく縄で縛られ、足かせをつけられ、大久保忠世によって、浜松に連行された。すでに弥四郎の妻子5人は磔にされており、弥四郎はその前を通らされた。弥四郎は当初は悪びれた様子だったものの、突如「お前たちは先にあの世へ行くか。めでたいことだ。私も後から行こう」と言い放ったという。

弥四郎の連行は、鉦や笛・太鼓で囃し立てられてのものだったようなので、見せしめの意味もあったろう。浜松の街を引きまわされた末、弥四郎は岡崎に戻され、牢に繋がれた。そして、ついに処刑となる。

処刑は、斬首で終わるような、生易しいものでなかった。岡崎の街の辻に穴を掘り、そこに、生き埋めにされたのだ。これが「大岡弥四郎事件」(天正3年=1575年4月)の顛末である。

武田氏に断固とした態度で臨む

事件は、弥四郎の野心により引き起こされたというよりは、武田氏が攻勢を強めるなかで、家康を中心とする「対武田氏主戦派」への反発が、岡崎の松平信康周辺にあり、事件が起きたとの見解もある。

家康を中心とする「対武田氏主戦派」は、弥四郎を極刑に処すことで、武田氏に与しようとする者への威圧と、武田氏に断固とした態度で臨むことを周囲に示したのであった。

濱田 浩一郎 歴史学者、作家、評論家

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はまだ こういちろう / Koichiro Hamada

1983年大阪生まれ、兵庫県相生市出身。2006年皇學館大学文学部卒業、2011年皇學館大学大学院文学研究科博士後期課程単位取得満期退学。専門は日本中世史。兵庫県立大学内播磨学研究所研究員、姫路日ノ本短期大学講師、姫路獨協大学講師を歴任。『播磨赤松一族』(KADOKAWA)、『あの名将たちの狂気の謎』(KADOKAWA)、『北条義時』(星海社)、『家康クライシスー天下人の危機回避術ー』(ワニブックス)など著書多数

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