猛る信玄の策略に嵌るも生き延びた家康の強運 三方ヶ原で敗れし家康に味方したのは英傑の死

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戦力比では、徳川軍は武田軍のおよそ半分。とはいえ防衛側ですから、決して絶望的な兵数ではなかったでしょう。ここに織田方からの援軍があれば、防衛に徹すれば戦えると思えますが、この織田方の援軍がどれくらいの規模だったかは諸説あり不明です。

通説では3000ぐらいしかなかったともありますが、最近では1万ぐらいだったのではないかという説もあります。ただ、信玄の狙いが信長ではなく家康だったとすれば、信長は万が一のために家康への援軍を少なくし、仮に家康が滅ぼされたとしても信玄と和睦の可能性を残しておく、くらいは考えていたのかもしれません。

信玄の侵攻スピードは家康の想像をはるかに上回るものでした。

次々と支城を落とし、遠江の要衝である二俣城に向かいます。家康は二俣城の救出のために自ら出兵しますが、あっさりと撃退され、二俣城を落とされてしまいます。わずか一カ月あまりで遠江の要衝を奪われた家康は、おそらく動揺したでしょう。

信玄はさらに策を弄します。二俣城を落とされた家康は浜松城に籠城しますが、信玄はこの浜松城を無視して三河へ進軍していきます。

NHK大河ドラマ『どうする家康』 岡田准一 織田信長 松本潤 徳川家康
果たして信長は家康に援軍を送れるのか(画像:NHK大河ドラマ『どうする家康』公式サイト)

信玄の策略に嵌った若き家康

三河は家康の本拠地です。遠江ルートを進む信玄本隊を意識し、主力を浜松城に集めていた家康は、たまらず城から出撃して信玄の背後から襲い掛かる策をとります。これが信玄の罠でした。いかに信玄といえども、徳川主力8000が籠もる浜松城を落とすのは簡単ではありません。このあと信玄が病に倒れ死去することを考えると、すでに信玄自身の体調も思わしくなかったのでしょう。

浜松城の攻略が長引けば武田本領に不測の事態が起こるリスクもあります。特に北条と再同盟を結んだとはいえ、これまでも破棄されてきた過去が。武田と同盟したことで上杉と北条は同盟を破棄していましたが、もしも上杉謙信が北条氏政を抱き込めれば、武田軍は一気に窮地に陥ってしまうでしょう。

それらのことを勘案して信玄は、家康を野戦に引きずり出して殲滅しようと考えたのだと思われます。信長が今川義元を討った桶狭間の合戦と決定的に違うのは、信玄は、はなから家康を野戦におびき出すつもりだったことです。

家康は、まんまと信玄の策に嵌められました。後方から武田軍を奇襲するはずが、三方ヶ原で武田軍の待ち伏せにあってしまいます。

このとき寡兵の徳川軍は、どう動いたのでしょうか。

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