信玄とは争わない姿勢を貫く信長
家康にとっての三方ヶ原合戦は、長年続いていた武田戦略のひとつの結果でした。その歴史は家康が今川家から独立を果たし、今川家と敵対していた時期に始まります。
当時、甲斐の武田家は当主・信玄と嫡子・義信で意見が対立し、信玄が義信を廃嫡して今川侵攻を決めました。信玄は今川攻略を優位に進めるべく家康と同盟を結び、東西から今川領の侵攻を進めようとします。しかし、この過程で両者に齟齬が生まれ、家康は一方的に同盟を破棄しました。
この一件で徳川と武田は、互いを敵国と認識します。信玄は、なんとか関係性の改善をはかろうと努力しますが、家康は頑なに拒否。信玄をして「三年の鬱憤を晴らす」とまで言わしめたほど、家康の対決姿勢は鮮明でした。
一方で織田信長の武田戦略は、どうだったのでしょうか。
信長は、桶狭間の合戦から5年後の1565年に、娘を信玄の息子・諏訪勝頼に嫁がせます。この直前に信玄は嫡男・義信を廃嫡しており、織田との婚姻は、まさに信玄による今川侵攻の意思の現れでもありました。
この婚姻は、どちらかというと信長側のメリットが大きいものです。信長はこのころ足利義昭の要請により上洛を目指していましたが、美濃の斎藤家とは交戦状態が継続中。信長としては、東側の備えとして家康との同盟がありましたが、それを強化するうえでも武田氏との同盟は優先順位の高いものでした。
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