このとき信長は、家康が浜松城に籠城すると考えたと思われます。
武田勢は3万近く、対する徳川勢は2万5000ほどが限界兵力でした。家康が各支城に防衛戦力を分散させなければならないことを考えると、動かせる兵力は8000あまりです。織田の援軍を加えても1万2000ほど。この少ない兵力で戦国最強の武田軍を、しかも野戦で迎え撃つとは信長は考えなかったのでしょう。
家康が浜松城で籠城し時間を稼いでくれれば、そのあいだに信玄と直接交渉して和睦に持ち込む選択肢もあると考えたのかもしれません。その意味でも、信玄を刺激しない程度の援軍にとどめた可能性もあります。
信玄の策略にはまる家康
現実的には信長が割ける兵力はこれが精一杯だったのでしょうが、ここで信玄は、さらなる一手を打ちます。浜松城を無視して、三河へ軍をすすめたのです。三河は徳川の本領地。第17回「三方ヶ原合戦」でも描かれたように、この信玄の挑発に家康は乗ってしまいました。
このとき家康は31歳。血気盛んな年齢で、姉川の戦いで武名を上げたばかりということもあり、信玄に対して無謀とも思える野戦を挑みます。これは信長にとって想定外の行動でした。
結果は家康の惨敗。
家康が討たれなかったことは救いですが、織田方も平手汎秀が戦死するなどの被害を受けます。信玄は家康を撃退すると、そのまま浜松城を攻めることなく進軍しますが、病死。家康と信長は九死に一生を得ることになりました。
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