このあたりの信玄の動きは今川侵攻と酷似しており、相手の状況を読み切って軍事行動に出るしたたかさがうかがえます。さらに信玄を後押ししたのは北条氏の動きです。信玄のライバルだった北条氏康は、自分の死に際して、後継者である氏政に武田との再同盟を命じました。
信玄が家康に手を焼いたのは、北条氏が家康と同盟を結んでいたからです。これで信玄は後顧の憂いなく徳川攻めを行える状況が整ったのです。満を持して信玄は、三河・遠江への侵攻を開始します。
信長には無断での侵攻でした。
それを示すものとして、同時期に信長は信玄に、上杉謙信との仲介の報告を書状で送っています。
信長の援軍は家康の期待を裏切った
信玄は北条氏と同盟すると、朝倉・浅井にも働きかけます。信玄にとって最も避けたいのは、信長自身が家康の援軍に現れること。これを封じるべく、朝倉・浅井に信長への圧力を強めるよう要請したのです。
朝倉・浅井にとって「戦国最強」と称される武田信玄の申し入れは願ってもないことですし、信長にとっては朝倉・浅井への備えに兵を割く必要が生じます。さらに三好三人衆の動きもあり、ただでさえ四面楚歌の信長は家康に援軍を送ることが困難に。しかし家康は信長に援軍を要請します。
姉川の合戦をはじめ、これまで何度も信長のために自ら出陣して協力してきた家康に、信長が援軍を送らないというわけにはいきません。信長は難しい判断を迫られることになりました。
最終的に信長は平手汎秀、佐久間信盛ら3000の兵を援軍に送ります。この援軍を多いと取るか少ないと取るかは人によるでしょうが、少なくとも信長自身は動きませんでした。
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