好戦的な態度を重ねる家康に、信玄は復讐の機会を狙っていました。さらに、信長の勢力が一気に増えたことも見過ごせなくなります。家康は、信長の浅井・朝倉攻めに参戦しながらも北条と呼応し武田領を攻撃していましたが、ここで家康にとって手痛い出来事が起こります。同盟を結んでいた北条氏康が病で亡くなってしまったのです。
氏康は、信玄、謙信とも匹敵する当代きっての名将でした。氏康の存在があったからこそ信玄は思うように動けなかったのです。氏康は、自分の後継者である氏政では、信玄と互角に渡り合えないと考え、自分の死後は信玄と同盟を結ぶことを遺言します。
怒れる信玄、全力で家康に襲いかかる
北条氏政は父の遺言通り、信玄と同盟を結びます。この瞬間、信玄は遠江・三河への侵攻が可能になりました。信玄が遠江へ出兵するにあたって味方に送った書状には、
「家康を攻めるのは三カ年の鬱憤を晴らすため」
とあります。これは家康が信玄との同盟を破棄してからの年数です。信玄の激しい怒りが伝わってきます。
信玄は、武田軍を二分し遠江と三河への同時侵攻を開始しました。その数2万7000。2万2000は信玄自らが率いて遠江ルートを進み、残り5000は山県昌景が率いて三河ルートを進みました。2万7000は当時の武田軍を総動員した人数で、信玄の本気ぶりがうかがえます。
対する徳川軍は1万5000です。家康は三河ルート、遠江ルートの2方向で防衛を強いられることになります。これまでの通説では、信玄は信長を倒すために上洛を目指し、その途中で家康を打ち破ったとされてきました。しかし、ここまでの行動を見るかぎり、信玄が他国を攻めたときのパターンと合致しており、あくまでも狙いは徳川領侵攻だったと思われます。
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