三方ヶ原合戦「家康惨敗」、裏に武田信玄の凄い知略 浜松城「素通り」はしたたかな計算だった可能性

✎ 1〜 ✎ 19 ✎ 20 ✎ 21 ✎ 最新
著者フォロー
ブックマーク

記事をマイページに保存
できます。
無料会員登録はこちら
はこちら

印刷ページの表示はログインが必要です。

無料会員登録はこちら

はこちら

縮小

「この城は土塁が高く、草原が近いです。一気に攻めることは難しいでしょう。竹束をもって、攻め寄せて、水手をとるならすぐに落城するでしょう」

竹束とは「竹を束ねて縄で縛ったもの」のことで、戦場での盾として使われる。竹束で攻撃を防ぎながら攻めていって水の補給手段を絶てばよい、というのが重臣たちの意見である。信玄は戦上手として知られるが、優秀な家臣たちがこうして意見できる環境も含めてのことだったのだろう。信玄は家臣のアドバイスを実行し、二俣城の攻略に成功している。

家康が家臣たちに助けられてなんとか撤退する一方で、信玄もまた家臣たちのサポートを受けながら、攻め込んでいた。思えば、家康と信玄は家臣を扱うことに長けた点でも共通している。信玄は攻略した二俣城の工事を終了させると、いよいよ浜松城へと迫ろうとしていた。

織田信長が武田信玄に激怒したワケ

そんな信玄の軍事行動に激怒したのが、織田信長である。なにしろ信長はこのころ、信玄と上杉謙信の仲を取り持つべく、奔走していた。それにもかかわらず、暴挙に出た信玄への怒りが、よほど収まらなかったらしい。元亀3(1572)年11月20日付の謙信に宛てた書状で、信長はその怒りをむき出しにしている。

「信玄の所行は、まことに前代未聞の無道、侍の義理を知らず、只今(ただいま)、都鄙(とひ)の嘲弄(ちょうろう)を顧みざるの次第」

「都鄙」とは都会と田舎、つまり、全国や天下といった意味を持つ。信玄は全国で笑い者になるだろう、とまで言っている。またこの手紙で信長は「家康のもとに援軍を送った」とも記している。織田家の重臣である平手汎秀(ひらて・ひろひで)、佐久間信盛、水野信元ら3000の兵が、家康のもとへと送られることとなった。

家康にとっても頼もしい援軍となったが、恐ろしいのは信玄が、この手紙が書かれる1日前の19日付の文書で「信長が家康に3000余りの加勢を行った」と書いていることだ。信玄がいかに巧みに情報収集を行い、相手の動きを察知していたかがわかるだろう。

次ページ武田信玄の「不可解な行動」
関連記事
トピックボードAD
ライフの人気記事