だが、そんな従来の見方に異を唱えているのが、平山優氏の『新説 家康と三方原合戦』 (NHK出版新書)である。平山氏は『三河物語』での記載に忠実に従えば、軍議は浜松城ではなく、出陣して武田軍を追いながら開いたものであるとしたうえで、『信長公記』の次の記述にも着目している。
「武田信玄は堀江の城を目指して進撃していた」
いったい、信玄が堀江城を攻めたからといってどうなるというのか。以下、『新説 家康と三方原合戦』から引用する。
浜松城にとって浜名湖水運がいかに重要だったのか。そして、武田軍の動きの詳細は『新説 家康と三方原合戦』に詳しいので、参照されたい。
冒頭で書いたように、信玄は二俣城を落とすときにも、重臣のアドバイスに従い、水路を絶って落城に成功している。次に浜松城を落とすにあたって、信玄が補給水路に着目したというのは、腑に落ちるものがある。
窮地の家康を助けた家臣とは?
先々の戦況を読んで水路を絶つべく堀江城へと動いた信玄に、その意図をすぐに察知して追撃した家康――。従来の「三方ヶ原の戦い」での解釈ならば、家康は「短気を起こした未熟者」ということになるが、この説に従えば、家康は追撃せざるをえなかったということになる。信玄に敗れはしたものの、家康は好敵手だったといえるだろう。
いずれにしても、家康はズタボロに信玄に負けてしまい、命がけで撤退戦を行うことになった。そして、ここでまた1人の家臣が、家康の命を救う。
その家臣とは、夏目広次。かつての三河一向一揆では一揆側について敵対したにもかかわらず、家康に助命された人物である。主君のために命を捨てる場を探していたのだろうか。この広次が文字通りに「命をかけて」家康の救出へと乗り出したのである。
【参考文献】
大久保彦左衛門、小林賢章訳『現代語訳 三河物語』(ちくま学芸文庫)
大石学、小宮山敏和、野口朋隆、佐藤宏之編『家康公伝<1>~<5>現代語訳徳川実紀』(吉川弘文館)
宇野鎭夫訳『松平氏由緒書 : 松平太郎左衛門家口伝』(松平親氏公顕彰会)
平野明夫『三河 松平一族』(新人物往来社)
所理喜夫『徳川将軍権力の構造』(吉川弘文館)
本多隆成『定本 徳川家康』(吉川弘文館)
笠谷和比古『徳川家康 われ一人腹を切て、万民を助くべし』(ミネルヴァ書房)
平山優『新説 家康と三方原合戦』(NHK出版新書)
二木謙一『徳川家康』(ちくま新書)
日本史史料研究会監修、平野明夫編『家康研究の最前線』(歴史新書y)
菊地浩之『徳川家臣団の謎』(角川選書)
大石泰史『今川氏滅亡』(角川選書)
佐藤正英『甲陽軍鑑』(ちくま学芸文庫)
平山優『武田氏滅亡』(角川選書)
笹本正治『武田信玄 伝説的英雄像からの脱却』(中公新書)
太田牛一、中川太古訳『現代語訳 信長公記』(新人物文庫)
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