すぐさま浜松城に向かってくると思われた信玄だが、不可解な行動をとっている。二俣城を攻略後、武田軍は南下。家康たちが籠城する浜松城を目の前にすると、武田軍は急に方向を西へと変えて、浜松城の前を素通りしてしまう。三方原台地に上ってそのまま三河へと向かおうしたのである。
三河から東美濃へ行き、さらに京へ上ろうというのはわかる。しかし、本来であれば、侵攻する進路にある城は必ず落としていくはず。そうでなければ背後を突かれてしまうからだ。城を落とさずとも、せめて城攻めの軍を差し向けて包囲し、敵の兵を封じ込めておくのが戦のセオリーだった。
ところが、信玄の軍は今、浜松城に見向きもせず、それでいて、城攻めすらも行わず、通り過ぎていったのである。そう、まるで家康のことなど眼中にないがごとく……。
家康としては命拾いした格好となったが、これほどの屈辱はない。怒りにまかせて出陣しようとする家康を、周囲の家臣が制止したらしい。『三河物語』によると「敵の人数は3万余りあり、信玄は熟練の武者です。ひるがえってわが軍はたったの8000にすぎません」と、重臣たちが家康をなだめている。
家臣を奮起させた家康、しかし結果は惨敗
だが、家康の決意は固かった。こう言って家臣たちを奮起させている。
「多勢が自分の屋敷の裏口をふみ破って通ろうとしているのに、家のなかにいて、でてとがめだてしない者があろうか。敵は多勢無勢で結果が決まるとは限らない。天運のままだ」
家康の頭には、大軍の今川氏を信長が破った「桶狭間の戦い」がよぎったのかもしれない。家康の指揮のもと、徳川軍は武田軍と激突する。
しかし、兵力の差もあり、武田軍が圧倒。徳川軍は壊滅状態にまで追い込まれてしまう。
惨めに敗走することとなった徳川軍。信玄の挑発に乗った家康の判断ミスとしか言いようがない。すべてにおいて信玄にはかなわなかった。若き家康にとって、あまりにも苦い敗戦となった。
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