三方ヶ原合戦、死に際の「家康」救った男の壮絶行動 かつては裏切り者だった「夏目広次」の恩返し

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 三方ヶ原古戦場碑
徳川家康と武田信玄が激突した三方ヶ原古戦場(写真:Taisuke/PIXTA)
NHK大河ドラマ「どうする家康」の放送で注目を集める「徳川家康」。長きにわたる戦乱の世に終止符を打って江戸幕府を開いた家康が、いかにして「天下人」までのぼりつめたのか。また、どのようにして盤石な政治体制を築いたのか。
家康を取り巻く重要人物たちとの関係性をひもときながら「人間・徳川家康」に迫る連載『なぜ天下人になれた?「人間・徳川家康」の実像』(毎週日曜日配信)の第21回は、前回に引き続き家康と武田信玄が激突した「三方ヶ原の戦い」について解説する。
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少数には不利な陣形で戦った徳川家康

「家康様は戦死されました」

『三河物語』に「大殿様ハ御打死ヲ被成候」とあるように、徳川家康の長男である信康のもとには、そんな知らせが届いたようだ。岡崎城まで逃げてそのことを告げたのは、信康に仕える山田正勝だ。そんなうわさが広がるほど、武田信玄と戦った「三方ヶ原合戦」は激しい戦いとなった。

徳川家康が浜松城を素通りした武田信玄を追撃しようとしたところ、三方ヶ原台地の地形がくだりに変わったところで武田軍が待ち受けていた……とも言われている。背後からつくつもりが、予想していない早い段階での正面衝突となったとすれば、家康もさぞ狼狽したことだろう。

しかも、家康はこのとき「鶴翼(かくよく)の陣」を敷いていた。鶴翼の陣とは、鶴が翼を広げたような陣形のことで、中央に位置する本陣が後方にあり、左翼と右翼が最前線に立つ。両ウイングの2軍が敵を挟み込むわけだが、今回の戦のように兵力が勝る相手には適さない。8000の徳川軍が、織田から3000の援軍を得たとはいえ、3万あまりの武田軍相手に使う陣形としては、ふさわしくなかった。

一方の信玄がとった陣形は「魚鱗の陣」である。魚鱗の陣は、三角形のピラミッドの形に部隊を配置するのが特徴で、先鋒が崩れてもすぐに次鋒を繰り出せるのが特徴となる。少ない兵力で敵を撃つときに使われるものであり、信玄が大軍にもかかわらず、念には念を入れて戦にあたっていたことがわかる。

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