徳川家康、三方ヶ原で惨敗後「信玄の死」悟った事情 信玄は「自身の死を3年の間は隠せ」と遺言

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武田信玄像
甲府駅前の武田信玄像(写真:PhotoNetwork/PIXTA)
NHK大河ドラマ「どうする家康」の放送で注目を集める「徳川家康」。長きにわたる戦乱の世に終止符を打って江戸幕府を開いた家康が、いかにして「天下人」までのぼりつめたのか。また、どのようにして盤石な政治体制を築いたのか。
家康を取り巻く重要人物たちとの関係性をひもときながら「人間・徳川家康」に迫る連載『なぜ天下人になれた?「人間・徳川家康」の実像』(毎週日曜日配信)の第22回は、家康と武田信玄が激突した「三方ヶ原の戦い」後の両者の動きについて解説する。
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家康は負けても余裕の高いびき?

徳川軍もさぞ拍子抜けしたことだろう。武田信玄は、合戦「三方ヶ原の戦い」で徳川家康に大勝。戦死者数については諸説あるが、武田軍が400人に対して徳川軍は1000人ともいわれている。それにもかかわらず、信玄は浜松城を落とさなかった。いったいなぜなのか。

大敗後に徳川家康や家臣たちが、どのように動いたかは文献により異なる。『徳川実紀』によると、浜松城に敵が押し寄せて来るので、みなが早く門を防ごうとしているときに、家康が意外なことを言い出したという。

「城の門は閉めてはならない。あとから次々と帰還する兵たちが城に入れなくなってしまう」

窮地にもかかわらず、家康は家臣のことを第一に考えた……そんなメッセージが込められているようにも思う。

さらに家康は「敵が大軍であるとしても、私が立てこもる城へ入ってくることはできないだろう」と、惨敗しておきながら、謎の自信を見せたかと思えば、湯漬けを3杯食べて、外まで聞こえるほどの高いびきをかいて寝てしまった。

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