徳川家康、三方ヶ原で惨敗後「信玄の死」悟った事情 信玄は「自身の死を3年の間は隠せ」と遺言

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その一方で、「三方ヶ原の戦い」での敗走といえば、勇ましさからは程遠い家康の逸話を聞いたことがある人も多いはずだ。

どんな逸話かというと、家康は恐怖のあまりに馬上で脱糞。浜松城に着いて、漏らしたことを家臣から指摘されると「これは味噌だ」と家臣に言い返した……というややインパクトの強い話だ。だが、まるで落語のようなこのエピソードについては、典拠となる資料が判然としていない。

また、このときの屈辱を忘れないために、「家康は自身の情けない姿を絵に描かせた」という逸話も有名だ。「顰(しかみ)像」と呼ばれる絵で、苦々しい表情をしながら頬杖をついて座る家康の姿が描かれている。家康は「三方ヶ原の戦い」ののち、このしかみ像をつねに傍において、自分を戒めたという。

この話も、やはり信憑性に乏しい。「しかみ像」は「三方ヶ原の戦い」よりも、はるかあとに描かれたものではないかとみられている。

武田信玄が浜松城をあきらめて先を急いだ理由

以上の文献に残る徳川軍の奮闘を踏まえても、信玄が浜松城をあきらめたのは不可解だ。それなりに犠牲を払うことにはなっただろうが、総攻撃をすれば浜松城は落ちて、家康を討ち取ることは十分可能だったはず。「3年の鬱憤を晴らす」ことが、本当にこの戦の目的ならば、信玄はしっかりと家康を仕留めたはずである。

それにもかかわらず、信玄が浜松城を見逃したのは、兵力を温存したまま、三河へ向かい、さらに美濃で織田信長との対決を目論んだからだろう。

信玄の側近として仕えた武将・高坂昌信(春日虎綱、高坂弾正)の口述をもとにした『甲陽軍鑑』では、武田信玄の言行や行動哲学がまとめられている。『甲陽軍鑑』によると、ほとんどの諸将が「浜松城に攻め込むべきだ」と主張するなか、高坂弾正は、次のような理由から反対している。

「浜松城を攻略するのに、早くて20日、もしかしたら30日以上かかるかもしれない。もしその間に、織田信長が総力戦で挑んで来れば、疲弊した武田軍は不利である」

さらにいえば、家康は越後の上杉謙信と同盟を結んでいる。大局的に見れば、浜松城を落とすことにこだわるほど、織田軍や上杉軍が加勢に来る時間を与えてしまう。浜松城は捨てておくべきだと、弾正は信玄に諫言した。信玄もこれに納得したのだろう。武田軍は浜松城を攻めることなく、刑部で年を越した。そして野田城の攻略に成功している。

しかし、意外な事態が起きる。

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