状況からすると「本当に大丈夫なのか」と不安になってしまいそうだが、豪胆な家康を見た者たちは「近くに控えていた男も女も心から感じ入った」(『徳川実紀』)という。
本当にあったことだとすれば、敵兵からすればさぞ不気味だったに違いない。武田軍が、どうしたことかと攻撃を躊躇していると、家康は鳥居元忠や渡辺守綱らに夜襲をかけさせて、敵を追い払った……と『徳川実紀』では書かれている。
武田軍が浜松城を落とさなかったのは、家康や家臣の奮闘ぶりがあったから、というのが、『徳川実紀』のスタンスのようだ。
信玄を驚かせた大久保忠世の夜襲
『三河物語』では、敗戦してもなお、戦意を失わない家康の重臣たちを描いている。信玄が首実検しながら、討ち取った徳川の兵たちの身元を確認していると、家康に仕える大久保忠世が、こんな勇ましいことを言った。
「このようになよなよとしていては、敵が勢いづくばかりです。諸隊の鉄砲をここに集めてください。私が率いて、夜襲をかけましょう」
追い詰められても、血気盛んな徳川軍。そんな様子に「敵ながらアッパレ」とばかりに、信玄はこう感心したという。
「これほどの負け戦ではこんな強襲は難しいはずだが、 今夜の夜襲はすさまじかった。 勝つには勝ったが手ごわい敵じゃ」
大久保忠世の活躍は『徳川実紀』にも書かれており、こちらでは信玄が「勝利しても、恐ろしいのは浜松の敵だ」とうなったとされる。信玄が浜松城を落とさなかったのは、それだけ家康らが手ごわかったからだ……と『三河物語』も『徳川実紀』も説明しようとしている。
はたして、本当に信玄が手ごわさを感じるほどの抵抗があったのかどうか。実際のところはわからない。とくに『三河物語』は大久保忠世の弟、大久保彦左衛門が書き記したものだ。兄の活躍ぶりがやや大げさに書かれている可能性はありそうだ。
だが、負け戦において、家臣たちが奮闘したのは確かだろう。家康は最後まで討ち取られることなく、生き延びている。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら