『松平記』でも同様の記述がみられる。家康は浜松城を素通りする武田軍を見て、こう悔しがったという。
「武田の大軍を見て腰が抜けたのか。目の前の敵をおめおめと通すのは口惜しい」
もっとも近年では、家康がただ短気を起こしたわけではなく、信玄が浜松城の水路を絶とうとしているのを察知して家康は追撃するほかなかった、という説もある(前回記事『三方ヶ原合戦「家康惨敗」、裏に武田信玄の凄い知略』参照)。
いずれにしても、家康が武田軍の追撃を決めたことには変わりない。その結果、自軍は甚大なダメージをくらい、もはや逃げ去るほかなくなったのだ。己の判断の未熟さや、リーダーとしての情けなさから、生き恥をさらしたくないと考えるのも当然だろう。
だが、そんな家康を決して死なせまいと考えた家臣たちもいた。夏目はそんな家臣の1人であり、何としてでも家康を退却させようと、強引な手段に出ることになる。
渋る家康を強引に退却させた方法とは?
広次は、なんと家康の馬の口をいきなりつかむと、そばにいた畔柳武重にこう伝えたという。
「私が主君の身代わりになる。お前はすぐにお供して撤退せよ」
そして「われこそが家康なり!」と名乗りながら、十文字の槍を手に取って激しい戦いへと打って出たという。もちろん、家康にしてみれば、家臣を身代わりにして逃げることなどできるはずもない。家康はその場を動こうとしなかったが、武重に馬を引きずられて、強引に戦場から引きはがされたという。武重もまた「夏目の行動を無駄にするわけにはいかない」という思いから、大胆な行動に出たのだろう。
それでも、武田軍の追撃がかわせないとなると、今度は松井左近忠次が家康のもとに参上。自分の甲冑を家康の甲冑を交換したうえで、自分はその場にとどまって奮闘したと伝えられている。
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