家康が溺愛「松平信康」21歳で迎えた壮絶な最期 徳川軍と武田軍との戦いが続く中で起きた悲劇

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信長と運命をともにした家康は、「長篠の戦い」で奇襲攻撃を敢行。織田軍のバックアップとして、退路を断つことに成功している(前回記事「長篠の戦いで信長を無視「家康の奇襲」成功の裏側」参照)。

長篠の戦いによって、壊滅的なダメージを受けた武田軍だが、総大将の武田勝頼は生き延びている。どれだけ手痛い敗北に終わったとしても、諦めない限り、人生は続く。勝頼は武田家を立て直すべく、手を尽くすことになる。

惨敗後も諦めなかった武田勝頼

惨敗を喫した勝頼は、数百人の旗本とともに退却。すでに奥三河では敗北が知れわたっていたらしい。武田方の諸城に入ることもままならなかった。敗戦によって一変した空気をひしひしと感じながら、勝頼は何とか信濃の高遠城まで退却している。

信濃で勝頼を出迎えたのは、今や「武田四天王」でただ一人の生き残りとなった、高坂昌信である。昌信は勝頼の衣装や武具などを新しいものに交換。勝頼を「敗軍の将」に見せないように取り計らったといわれている。その後、昌信が敗戦処理について勝頼に献策したことが、昌信自身が成立に携わった『甲陽軍鑑』には記されている。

これまでと変わらず自分を慕い、武田家の行く末について考えてくれる存在が、勝頼にとってどれだけ有難かったことだろうか。実際に実行された献策は少なかったが、励みになったに違いない。

勝頼は家臣団を再編して立て直すべく、早々と手を打っている。長篠の戦いの直後に、穴山信君を江尻城に入らせて、駿河支配の拠点とした。

もっとも家康の動きもまた早い。長篠の戦いから6日後には駿府に入り、清見寺の関東付近まで進出。あちこちで火を放っている。そんな家康に負けじと、勝頼も駿府・遠江の諸将に指示を出しており、ここに家康と勝頼との第2ラウンドが開始されることとなった。

最終的に、勝頼は重臣たちにことごとく裏切られて自害する。長篠の戦いでの敗北から武田家滅亡まで、7年の月日を要することとなった。

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